保育園生活

この原書本公開マガジンも早5日目を迎え、なんとなく板についてきたかなぁと思う今日この頃。

障害発覚後リハビリに明け暮れた日々を過ごし続ける母子は、並行して次なる山に挑むことになります。

(※本投稿は一部、施設名などをぼかして公開することにします)

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 リハビリで身体の機能向上を試みながら、3歳頃からは埼玉県所沢市の障害児通所施設に2年ほど通いました。保護者同伴が義務付けられていたので、母は大変だったと思います。実際、3つ上の姉と双子の相方を育てながらの通院同行は、「家事をする時間も、1日中座る時間もない」ほど忙しかったといいます。
 そんなこともつゆ知らず、私はひたすら紙芝居や本を読んでもらっていた記憶しかありません。また、人見知りだったのか本当によく泣いていました。
 そして、5歳半を目前に1つの転機を迎えます。かねてから「就学前までにはなんとか一般の集団生活も経験させたい」と思っていた両親でしたが、今から25年ほど前ですからまだ障害に対する理解も乏しく、当時の所沢市は障害を持った私の入園を許可しませんでした。双子ということもあり、送り迎えの負担も考慮し、「できれば2人を同じ保育園に入れたい」と、障害児でも受け入れてくれる保育園を探した結果、東京都練馬区に引っ越すことになったのです。

 そんなわけで、相方と同じ保育園に通うことになったのですが、全くと言っていいほど馴染むことができませんでした。なぜならそれまで大人としか話したことがなく、騒然とした環境に慣れていなかった私にとって、保育園は恐怖でしかなかったのです。
 当時、(その学年を担当する)4人の先生が2週間交代で私の専属として付いてくれていました。もちろん介助を行うためです。すでに大人と関わることには慣れていた私は、子どもながらに「優しさを見極めていた」のです。ここでは4人の先生のうち、「1番優しい先生」と「1番怖い先生」の担当週にあった忘れられないエピソードを1つずつ紹介することにします。

 まずは、「1番優しい先生」の場合、この2週間はだけは騒然とする集団生活に混ざっても泣かずに過ごすことができたのを憶えています。そして、トイレなどで先生と2人になると、「神様のバカ!どうして歩けないの?」と質問していたことを覚えています。この頃から何となくですが「みんなと違う」ということに気付きはじめていたのだと思います。
 そして、「1番怖い先生」の場合、とにかく泣いていたので、帰宅後は母に「泣いていない」と嘘をつくのですが、同じクラスにいる相方にすぐに真実を報告されてしまっていました。幼心に「嘘はバレる」と思い知らされた苦い思い出です。
 当時の私にとってはあまりにも怖すぎて、直接的な関わりで覚えているのは「プールに沈められた」ことしかありません。先生の名誉のためにもう少し詳しく書きますが、記憶では背泳ぎの体勢になって「力抜いて~!」と促され、先生は支えている手を何も言わずにそっと離すのです。またある時はうつ伏せでそれが行われる・・・。それも私ができるようになるまでずっとです。どれだけ水を飲んでも行われるその練習は、私にとって永遠のように感じられました。

 後になって聞いた話ですが、その先生には「私が将来溺れてしまったとしても助けが来るまでは生き延びられるように」との思いがあったそうです。しかし、子どもにとってはそんなことはどうでもいい(笑)
 こうして苦い集団生活を経験し、いよいよ小学校入学を迎えるのです。

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図1

幼少期にプールに沈められそうになった記憶を持つ男が今や、八丈島の海でシュノーケリングを志願し、友人と昨年行った九十九里では自らウミガメを演じているのですから、人生って本当に面白いですね!(笑)

画像2


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