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Ep.004: 紫のあまいケムリ-ニューヨークの追憶

 私は朝早く目を覚ました。外からときおりビュンビュンと車が走る音が聞こえた。その音は掘っ立て小屋にビュウビュウ通る真冬の隙間風のようにも聞こえた。

 彼女は既に目を覚ましており、髪を留め鏡に向かって化粧をしていた。脇腹には黒い金魚が優雅に泳いでいた。小さなベッドルームには彼女が書いた漢字の羅列、荒木経惟の緊縛された女性の写真、若い花と老いた花が混ざった花瓶、一つは空っぽで、もう一つには吸い終わったタバコが詰まったティーカップが小さな丸いテーブルに置かれていた。その横には使いかけの香水数本と、ノートブックとペン。椅子の背もたれには紫の短いローブが掛けられていた。

 彼女の名前はヘイズといった。私は友人の紹介で彼女と出会った。馴染みのバーでたわいのない会話を重ね、連絡先を交換した。彼女はエクボが可愛らしい顔立ちとは少しギャップのある深い声をしており、小さな口から出てくる言葉は詩的な言葉の羅列であったことを覚えている。

 数日後に私の家で少し大掛かりなイベントを予定していたので、その旨を伝え、その夜は別れた。パーティ当日、彼女は私の自宅兼会場に現れた。

ヘイズを紹介してくれた友人達も来てくれて、人の波がひと段落着いたところで、私とヘイズは中庭に出て隣り合い人々と談笑していた。人々との会話が数秒途切れた時に、隣にいた彼女は少し背伸びをして私の唇にキスをした。対面にいた友人達が気づいたかどうかも分からない刹那のことであった。

その後はお互い無言の了解を得たように、隣り合うお互いの距離は近くなり、私は彼女の腰に手を置き、彼女は私の胸に頭をもたれさせた。

 その頃私は、友人の影響で英語で詩を書くことを始めた。上手いか下手かは別として、こんな私でも英語で韻が踏めることに嬉しい喜びを感じていた。ヘイズと出会い、他の友人とはできない、普段の私より少し背伸びした語彙を使った会話ができることも嬉しかった。私は何度か彼女に詩を贈り、彼女はそれに日本語と英語を交えて応えてくれた。交わす言葉に Majide, Arigatou, Yabai, が時おり混じった。

 ヘイズの動きと彼女から発せられる言葉は、ケムリのようにつかみどころが無かったが、無理につかもうとせずに、彼女という、あまいケムリの中に入ってしまえば彼女は私の全身をやわらかく包んでくれた。

 いくばくなくして、二人で最初に出会ったバーへ飲みにいった。時間は流れるように過ぎ、私が飲む酒のペースが段々と速くなっていた。パーティでの不意のキスと、彼女の気持ちにたいして、私は彼女の気持ちに半信半疑であり、そしてまた彼女のケムリにまかれる許しみたいなものを私は待っていたのかもしれない。

 お互いほろ酔いの段階を超えて、そのまま近所の彼女のアパートにたどり着き、私は彼女のケムリのなかに入り、一夜を過ごした。しかし許容量をはるかに超えた酒が、恥かしながら私の体を鈍化させた。彼女のあまいケムリを無理につかもうとしたが遅かった。
 
 朝日がのぼりきらない薄闇のなか、朝早くから仕事があるため身支度をする彼女の一挙一動を私はベッドの上で見ていた。紫の短いローブを羽織り、小さな椅子にチョコンとすわり長い髪は私が見つめる反対側に寄せ、細いタバコをくゆらせていた。二言三言交わした。タバコの吸殻をティーカップに押し込み、今度は鏡に向かって手際よく化粧を始めた。真っ白でなめらかな背中におよぐ黒い金魚が優雅だった。

 私がヘイズに普通とは違う好意を抱いたのは、彼女のつかみどころのない魅力だけではなく、二人の人間が合わさった関係性に私が恋をしたからではないか。彼女だけでなく、彼女と接している自分のことも好きになれた。普段言わないことを躊躇なく言えたのは、それに対し彼女がためらいなく反応してくれたからで、自分の芯の近い部分をペリっとむけて向き合うことができた。普段なら若干の痛みと疼きがともないそうだが、ヘイズの前ではそうではなかった。

 出会いから数ヶ月もしないうちに、ヘイズはロンドンで仕事が見つかり、ニューヨークから引越していった。彼女は元気にしているだろうか?と想いをはせると、彼女の紫のあまいケムリが私の目の前をつつみ、またしばらくのあいだ晴れそうにない。



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