ここがどこなのかどうでもいいことさ、なんて気になることが大事
拝啓、ご無沙汰してますが僕はますます元気です。そんな軽い勢いで、ヨーリーが先日noteで取り上げていた「DAIJOBU」を観てまいりました。
人生フットワークが命、ということをモットーにしておりますが、映画を見に東京まで行ったのは実に久方ぶりであります。しかし、ヨーリーのサポートのおかげで無事に観ることが出来ました。
さらには映画以外にも幕末の侠客“小金井小次郎”の生まれ故郷である小金井を見たり、横田基地を見物したり、世田谷美術館にある魯山人コレクションの一部を堪能させてもらったりと、短い旅ではありましたが、ヨーリーの案内で多くの見聞を得ることができました。この場で改めて謝辞を述べさせていただきます。
で、映画の話になります。なるんですが、上手くまとめきれないと思うことを最初で断りを入れます。それは、俺にとってこの映画は情報量が多いからです。
とはいえ、そういう言い訳を最初からカマすのは男らしくないとも思うので、とっとと映画の感想を述べていこうとおもいます。
この作品は、大阪の東組という“一本独鈷”。つまり大組織の系列に属さないヤクザ組織の有名組長が、禅宗で寺を持たず活動する有名な坊さんに座禅を習いに行く、というところから物語は始まります。
それぞれの経歴。ヤクザとして、川口和秀がどういう経歴を辿ったか。そして、禅の僧侶として村上光照がどういう人生を送ったかが簡単に紹介され、そして二人が対面するまでが前半に描かれます。
ドキュメンタリーですから、それぞれの人間性、考え方、そうしたものがふとした言葉の端々に出ており、川口親分と村上老師とのキャラクターの対比が上手く描かれていました。
「人を動かす根源は色と欲」
そう言い切る川口親分は、まさにヤクザの行動原理を象徴する言葉を吐きます。同じようなことを、竹中武という親分は「ヤクザとは人間の業の肯定である」と表現しました。
悪いことをする。わかっていてもする。悪と知りながらそれをする。人間の業とはいえども、悪事を犯すことに躊躇いがあってはならない。
判断を誤ると自分や仲間が長期の社会不在、つまりは懲役に行くことになったり、下手すれば命を失う世界にいるわけですよ、彼らは。だからこそ、悪事を犯すことに躊躇がないわけです。
それに対して村上光照和尚もまた、自身の生き方、信仰に対して躊躇いがない。不惑とでも言いましょうか。
禅宗の人なのに、作詞した鎮魂歌で「なんまいだー、なんまいだー」なんて浄土宗の経文なんか入れてるわけですよ。これってイスラム教徒が「アーメン」とか言うようなもんです。あり得ないことを平気でやってのける根性にたまげました。
おまけに「親鸞さんはこんなこと言っとって」と、他宗の人の言葉ですらガンガン引用して教えを説く。というか、教えを説いていると言うよりも、ジジイの独り言ブツブツみたいなノリで、「どーせ言ってもわかんねーだろーけどなぁ、こんな感じなんだよなぁ」的な喋りをするわけです。
説法、って古今東西、わかりやすく信者を広げようとするものなんですけど、村上和尚のソレは“俺節”が満ちてるんですよね。ぶっちゃけこうなんだからしょうがねーだろ!みたいな。「わかろうがわかるまいが、俺の中でこうなんだ!」という強い意志とそれを貫く力ですね。
説法ではなくてドキュメンタリーの中で監督や他の人たちとの関わりで出た言葉だからこそ、その力強さが如実に出ていたのかもしれません。
しかし、和尚の力強さは言葉だけでは無い。肉体的な強さがまたすごいんですよ。
「坐禅とは、天に向かって真っ直ぐ背筋を立てることが大事」
そんなことを村上和尚は師匠の坐禅してる写真や東南アジアの釈迦坐像の写真を提示しながら語るんですが、本人もまた、それを体現しているんです。
作中、亡くなった知人のために祈りを捧げる時、腕を回し、グッと肩甲骨を引き寄せて背筋を伸ばして見せる場面に言葉を奪われました。
仕事柄、背中の曲がった老人たちにそれでも限界まで背中を伸ばすよう仕事をしている身として、あの肩甲骨を寄せる所作の見事さにおどろかされたのです。
和尚もまた、普段は背中が少し曲がっているのに、それを身体操作で無理矢理に引き伸ばす。そして、それを可能にするのが首筋から頭部にまで盛り上がった脊柱起立筋なんですよね。二股に割れた見事な起立筋。
あれは、腰まで続いていて、背中を真っ直ぐ立てるためのみに機能しているわけですよ。修練によって獲得した異常な筋の発達。「心と身体は繋がっている」という、持論を体現していることを、映像がとらえているわけです。
そして、そんな村上和尚に坐禅を学ぶ川口親分もまた、姿勢の良いひとなんですよね。若い頃の粋がってる頃をのぞけば、あとは背筋がビシっとしている。
東組は、よその組と喧嘩になって手打ち式をやる時に、よその組はあぐらかいてるのに正座をして式をやり遂げることで「あの組織は根性ある」というパフォーマンスをやったことで名を挙げた(他にも色々と要因ありますが)んですけど、川口親分はまさにその“姿勢”という形がヤクザの駆け出しの頃に仕込まれていたんです。
だからこそ、坐禅一つ、トイレ掃除一つにしても「やらされている」という印象なく、自然にこなせているんだと感じました。
刑務所生活という自由を奪われた生活の中で文字を学び、知識を吸収した、という、川口親分の生き方も、自分を戒律という不自由の中で自己と向き合う禅という世界と調和しているように、自然に描かれていて、思わず笑ってしまったほどです。
川口親分と村上和尚は映画の予告編の場面ほどしきりに出てきません。互いを描くだけで絵になる二人だからこそ、なかなか揃う場面がない。それでも成立する二人の存在感と、揃った時に起こるマジック。この展開は是非ともご覧になってほしいものです。
村上和尚は作中に他宗派である親鸞聖人の話をよくするのですが、親鸞聖人は「悪人正機説」ということを説いています。
つまり、善人が極楽に行くことより悪人が改心して極楽に行くことの方が難しい。だからこそ、逆に悪人が改心することの方が普通の人が極楽に行くことよりも正しい道に近いのでは無いか?
無茶苦茶なようでいて、実はキリストもまた、姦淫の女を戒めようとする人たちに「罪なき者のみこれを石持て打て」と言っているわけで、悪人に赦しを与えることもまた宗教の本質なんですよ。
許す。赦す。それを“ユスる”を生業とした人がやるなんて面白いじゃないか、なんて軽い言葉では片付けられない世界がこの映画にはあります。
あと、どういう風生きるか?ではなく、どんな風に死ねたら幸せか。
そのためにどう生きるか。そんなことを感じさせてくれた映画でした。
そして最後に流れる細野晴臣さんの「恋は桃色」。五十年前の曲ということに驚きました。だって、細野さんその時二十代ですよ。
最初の二小説の歌詞だけで、この映画の本質が現されているんですよ。
ここはどこなのか どうでもいいことさ どうやってきたのか 忘れられるかな
物理学を捨て坊主の道を極めようとした人。ヤクザの道で名を馳せながら、坐禅をして心の安寧を求めようとした人。そんな二人の人間が交わるようで交わらない。曼荼羅よりも複雑な絵巻がこの作品にはあるのです。そして、その作品のエンディング曲が作られた、狭山のアメリカ村。あの光景を見せていただき本当にありがとうございました。
寒暖激しい日和になっております。くれぐれもお身体にきをつけて。
武富一門 ryo-king