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かっさらう人、さらわれる人



人さらいにさらわれそうになったこともなければ、さらったこともありません。しかし、人たらしというか、あらゆる人の心をさらうような人に心当たりはあります。
ヨーリーの言う人さらいの方のように、俺の知る男ももう故人で、奇しくも弥生の産まれで、さらには俺の母と誕生日が一緒でした。
寂しがり屋で、人の集まる場所が大好きで、人を喜ばせるように振る舞い続けたあげくに、誰にも告げずに、忽然とこの世から姿を消しました。


仮にAとでも呼びましょう。Aは夜の街をつるんで遊んだ友人でした。彼がDJをするイベントで話をしたことがきっかけで、いつしか兄弟のように仲が深まりました。
Aは顔がやたら広く、彼の友人知人を色々と紹介され、狭かった俺の交友関係も広がり、夜遊びの頻度が格段に上がりました。

今思えば、金もなく酒が飲めていたのはAが錬金術師のように俺の勘定を他の人間に廻してくれたりしていたからなのだと思います。沢山の友人たちに囲まれていながらも、ふと、「この話は奴にしか出来ない」。そんな風に俺のことを思っていてくれていたのなら幸いです。とは言っても、俺と彼は主に“ヤクザ”の話、平たく言えば暴力団に関する話で盛り上がるヤクザオタクで、彼は俺の他にヤクザの話で盛り上がることのできる人間がいなかったのです(当たり前ではありますが)。


そんなこんなでAと様々な場所で酒を飲み、彼の結婚式にも呼ばれはしましたが、結婚してからも彼の放蕩は止まらない。昔から女関係には見境のないようなところがあったけど、それが結婚してからも歯止めがかからないわけです。
よく自嘲しながら、「ムスコの出来が悪いんだ。言うこと聞かない」なんてことを言ってましたけど、本当にヘソから下は別人格のような、そんな男でした。
まぁ、そう言えるだけ女にモテたし、虜にしていたんですけど、結局、女で満たされていたのかと言うと、これがよくわからない。
次から次と関係する女はいても、そこに安住することがない。というより出来ない。関係を持つ女にしたら、ホントに人さらいのような男だったと思います。

はだしのゲンを肌絵として刻んだ彼は、七十を超えた中沢啓治先生に自分の企画したイベント(深夜)に電話でコメントをさせるという無茶なことをさせた偉人でした。応えた中沢先生の心意気もすてきでした。


俺が今の稼業につくための勉強を始め、盛場から足が遠のいてからも彼は頻々に俺の実家に足を運び、ドライブをしながらくだらない話をしました。彼のイベントにゲストとして招待してくれて、酒を奢ってくれたりもしました。
別に顔を合わさなくとも、メールでヤクザ情報などをやり取りしていましたが、彼は俺を必要としてくれていたのでしょう。そのことが嬉しくて、勉学の時間を割いても彼の誘いを断ることはありませんでした。


医療系専門学校に通い、初めての実習の最終日に、Aの死を共通の友人から知らされました。友人は動揺しており、Aの死の真偽を確かめるため実家を訪ねました。
Aの実家は家族以外にも俺たちのような友人たちでごった返していて、俺たちは仏壇の前に眠るAの前に通されて遺体と対面しました。
一緒に来た友人のTは俺よりも彼と付き合いが長く、一緒にイベントをしていた盟友とも呼べる存在だっただけに、言葉を失っていました。言葉を失ったのは俺も同様でした。
Aの嫁さんが「あんたが好きなryoもTも来てくれたよ!目を開けて!」と言って号泣する姿を今でも覚えています。
俺たちは放心し、その後に共通の友人の店でただただ酒を飲み、大層飲んだ割に酔えないまま帰ったことを記憶しています。


Aの葬儀が終わった後に彼を追悼するイベントが何ヶ月も企画され、散発的な追悼飲み会も多数ありました。故人を偲び、早逝した愚痴を語り合う、そんな集まりです。

何年かして、内地から帰ってきた共通の友人と偶会した時にもそういう話になりました。彼女は、Aの葬儀で泣く女性たちについて「アレ、半分くらいヤってる女でしょ?」と言いながら「私はあれ見てヤらなくて良かったと思ったんだよ」と意味深なことを呟き、虚空を見つめていました。
彼女と彼の間にどんなことがあったのかは聞きませんでしたが、まぁつまり、彼は様々な女たちとの物語を手がけたものの、最後まで完成させることなくほっぽらかしにしたような所がありました。そのことを指して言った言葉だと思っております。


しかし、誰からも惜しまれ、早逝した彼が何故に俺なんかに目をかけてくれていたのか、と今になって考えると、俺は彼と夢を語り合っていたんです。彼は絵描きになりたかった。漫画を描きたかった。しかし、ストーリーを考えられない。そんな彼のために幾つかストーリーを考えてあげたりもしました。しかし、それを作品にすることが出来なかった。
イラストのようなものは幾つか残して、それが世に残っていますが、結局マンガという、一番したいことはできなかった。その手始めというか、二人の共作のようなことがしたくて、俺の文章に彼のイラストを添えるということをしたこともありました。

「沖縄やくざ戦争」という映画の文章をとある媒体で書く機会があった時に、安いギャラでしたが、彼にイラストを依頼して、描いてもらったことがあります。
〆切直前になってもぜんぜん手をつけてなくて、彼の住処を訪ねて様々な言い訳を聞き、その場で絵を描かせました。「コピックマーカーが無い」と言うから、二人で必要な色を画材屋で買い、彼の部屋でくだらない話をしながら絵を仕上げてもらいました。
出来上がった絵は、何故か千葉真一の左手にサイコガン(コブラの武器)が装着されている、という凄まじい仕上がりでしたけど、ダメ出しをして彼の気力を削がないためにダメ元で描かせました。
この無茶苦茶なイラストは時間もなかったこともあり、結果採用となりました。Aと俺のコラボレーションは世に出ることとなり、彼とそのギャラで痛飲したことが忘れられません。


弥生の季節になると、彼のことを思い出します。生きていたら、俺よりも一つ年下の彼のことを。


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