草にすわり、草を編む
去る七月の野の喫茶(*1)にて、写真家の椿野恵里子さんと、彼女の庭の力芝から編んだという帽子に出合ってから、自分もいつかつくってみたい、機会があれば教えてほしいと話していたことが、先日開かれた「ノノクサ会 霜降 草にすわり、草を編む」(*2)において叶った。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
——八木重吉「草にすわる」
この詩の朗読を皮切りとして、「ノノクサ会 霜降 草にすわり、草を編む」は始まった。間違いという、誰でも知っている素朴な、それでいて日頃はあまり使ってこなかった言葉の響きから、日頃はあまり考えないところに誘われるようで、草にすわり、草を編みながら——今回は力芝を帽子目ざして編みながら——、一個人の間違いに帰すことのできない、いつからとも知れない間違いということを思っていた。
そうして、草をひとしきり編み終えてからアトリエに戻り、谷川俊太郎がこの詩に応えた「間違い」という詩を読んでみると、それは次のように書かれていた——
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから
まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座ってぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ
間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて
——谷川俊太郎「間違い」
谷川俊太郎は、この詩自体が間違っているのだと、読者をして言わせたかったのではないか。瓦解なら、すでにはじまっている。それから、草にはいつでも座れる。そこに気付いたひとからそうする。あるいは何かの間違いから草にすわったとき、どちらが間違いであったかと、はたと気付く。私はそう取った。そうして、今は庭師として、コンクリートをひとつひとつひっぺがしそこに庭をつくることによって、いつからとも知れない生き直しを図っているのだと腑に落ちた。
昨日編んだものが帽子になるには、まだまだ時間がかかるだろう。ありがたい宿題を持ち帰ったと思う。