枯れ枝と蝉の出来事
二十四節気、寒露につき
連載「すべてのひとに庭がひつよう」
第五回が更新された。
題して「鳥になった庭師」
この中で、スズメになった庭師の西田が、剪定途中の木の枯れ枝に傷がついているのを発見して、これは蝉が卵を産んだ跡やから、と切らずに取っておいたことに触れたのだが、それを西田は箕面公園昆虫館の元館長・久留飛克明さんのツイートに知ったそうで、今朝方、次のようだったと送られてきた。
つまり庭とは、単にそこに植物が生えている場所なのではなく、蝉が卵から孵化していずれ成虫になる出来事でもあるということ。出来事と言ったのは、一昨日参加してきたホ茶会で、陶藝家の市川孝さんが、お茶の生まれる前に遡って、それが生まれて来るところを考えてみれば、水と植物と火の出来事であると説いてから、茶をあらしめたことに由来する。
それから、植物といっても、葉、茎、花、根、と色々ある。たとえば種の出来事なら、珈琲でしょう、と。
茶と珈琲と、物としては分かれているように見えるが、つまるところそれらは水と植物と火の出来事なのだから、事としては繋がっているとも言える。今の珈琲屋はモノでしか見ない、と文中でも触れた名著『珈琲屋』で珈琲美美の森光さんは語っていたが、庭師もまた同じことではないだろうか。どうかすると植物だけを見ていないだろうか。物と事を繋げてみなければ見えようもない、枯れ枝と蝉の出来事——庭があるというのに。
するともう、庭師は枯れ枝を簡単に切れなくなる。それは庭師が、蝉の身になってしまうからだ。庭師というのはその時々で、事につられて、色々なものになる生きものなのではないか。