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気づける人【11月22日】


自分が困っている時、少し元気がない時、苦しい時。
なかなか誰かに「助けて」と伝えることができない瞬間もあります。

でもそういう時に、なぜだか分からないけど、「元気?」とか「お疲れ様!」と声をかけに来てくれる人って確かにいますよね。
真っ先に顔が浮かんだその人は、多分あなたにとって、とっても大切な人なのでぜひ大切にして欲しいと思いますが、こういう何気ないひと言を、自分が欲しいタイミングで伝えに来てくれる人って、一体何者なんでしょうか笑。

僕は、そんな人を「気づける人」と呼びたいと思います。
僕はそんな「気づける人」に日々救われながら生きているので、できる限り自分も「気づける人」でいたいと思っています。

「気づける人」であるためには、何を大切にしたらいいのか、どうして気づくことができるのか、今日はそんなことを考えて見たいと思います。

気づける人は、いいポジションにいる

まず考えるべきは、自分でヘルプを出していない、助けてと言ってもいないのにも関わらず、なぜ気づくことができるのかということです。

少しだけ話は脱線するかもしれませんが、
「気づく」の語源は「傷つく」だそうです。

人には誰しも傷つく瞬間があります。
人から向けられた何気ない言葉とか、どうしようもない事実に直面した時とか、理由はさまざまだけど、傷つく瞬間がある。

なんで傷つくのかを考えてみると、その背景には自分の大切なものがあるような気がします。

大切にしているものは何かと言われると難しいし、相手の大切なものを見極めるのはそう簡単にできることじゃありません。だからこそ、相手を大切にしようと思って発した言葉が、時に相手を傷つけるということも当たり前のように起きてしまいます。

最近「利他・ケア・傷の倫理学」という本を読んでいます。
その本の中に、こんなことが書いてありました。

傷とは、大切なものが誰かによって大切にされなかったり、自分自身がそれを大切にできなかった時に生じるものである。

「利他・ケア・傷の倫理学」近内悠太

そしてこうも書いてあります。

傷は見える。
傷ついた時の立ち振る舞いは、行為の中に、言葉の中に顕れる。

「利他・ケア・傷の倫理学」近内悠太

何が言いたいかというと、僕たちは相手の傷を通して、相手の大切なものを見つめることができるんじゃないかということです。
もちろん、相手が大切にしているもの、"それ自体"を見極めようとすることもあると思います。でもそれはなかなか難しいなとも思っています。

そんな時僕たちは、相手の傷を見つめることで、その真裏にある相手の大切なものを見つめようとしているんじゃないかということです。

そして、傷つくが気づくの語源であるのは、"傷つく"という体験を通して、自分の大切なものに"気づく"ことができるということなのではないかと思うわけです。

そう考えると、気づくことができる人は、傷ついたことがある人とも考えることができそうです。自分も同じ傷を背負ったことがあるからこそ、相手の大切なものに想いを馳せることができる。

そしてそこに想いを馳せることができる距離感にいる。その人は大切な相手にとって"いいポジション"にいるのだと思います。

いいポジションというのは、気づくことができるポジション、ちょうど良い距離感とも言えるかもしれません。

仲間のひとりにもらった大切な言葉があります。

相手を想うことは、必ずしも近くにいることじゃない。
遠くから眺めていても、その人のヘルプに気づくことはできるよ。

仲間からの言葉

最初は全く意味が分からなくて、話に行かないでわかるわけないだろ!って思っていたのですが、今振り返ると、ちょうど良い距離感にいるからこそ見えることがある。

言い換えれば、"気づく"ために適切なポジショニングをしろよっていうことだったのかなと思います。
もちろん、最初からそれはできないし、わかった気で驕らないというのは前提としてありながら、気づく人はきっとそのポジショニングが上手なんだろうなと思っています。

気づける人は、余白がある。

もうひとつ大切だと思うのは、気づく自分側に十分な余白があることだと思います。

自分に余裕がない時、切羽詰まっている時は、どうしても人に優しくなれない瞬間があります。
周りのことなんか気にしてる余裕はないかもしれない…そう感じる瞬間が少なくとも誰しもが経験したことがあると思います。

だからこそ、誰かの小さな傷を見逃さないためには、もしくは大きな傷を見落とさないためには、自分自身が余白を持てているかどうかというのがすごく大切な気がしています。

余白という意識は、仏教でいうところの「空」とか「無」という概念との繋がりが深いと言われています。
キリスト教においては、"無とは有の対義語"であり、何もないことを意味しますが、仏教では、何もないことは豊かであり、実は多くのものが含まれていると考えることがあるそうです。

侘び寂びなんて言葉もありますが、あれもまさに「不完全であることへの美意識」のようなもので、この考え方も余白と結びつくような気がしています。

「無」そのものに目を向けることで、有るものとの境界線を曖昧にしたり、そこに意味を込める、そんな余白的な感覚は、何かに"気づく"上で間違いなく大切なものだろうと思います。

気づける人は、持っている。

ここまで、ポジショニングと余白と、二つのキーワードで"気づける人"を考えてきました。
ここまで考えると、気づくということは誰にでもできる気がしてきます。

一方で僕は、最後の要素として「縁」というものがあるのではないかと考えています。

どれだけポジショニングを極めて、余白を生み出したとしても、最終的には気づける人は縁があった人だと思っています。

気づけるポジショニングにいたこと。
その瞬間、そのタイミングで自分に余白があったこと。

言葉にするとできそうな気がしますが、これらが重なることは、実はすごいことなんじゃないかと思っています。

気づく瞬間っていうのは、本当に些細な出来事がきっかけになることがほとんどで、それらはどれだけ意識をしたとしても、そう簡単に再現できるものではないような気もします。

たまたま日常の中で、その人のいつもと違う様子に気づけたとか、たまたま何かをやろうとした時に、その人の様子が目に入ってきたとか、気づけたことを「自分の実力だ」と思いすぎるのは少し危険な気がしています。

おそらく、気づくことができるのは、気づけないという前提に立つからだと思います。

気づける人だと、自分が自分を評価した瞬間に、僕はどうしても「油断」してしまうと思います。
油断すれば、小さな違和感を逃してしまう気がします。

もっと言えば、気づいた気になって、相手を傷つける可能性も出てきてしまうと思います。

だからこそ、気づけないという前提は大切だと思いますし、気づけたことは自分の実力ではなく、縁だと解釈をしたいと思っています。

縁だと解釈するからこそ、自分が相手に言葉を届ける"責任感"のようなものも芽生えるのかもなとも思います。

これからも、少しでも気づける人でいられるように、気づけないことを前提にしながら、自分自身に余白をできるだけ持ちながら、あなたにとっての良いポジションを模索していこうと思います。

僕の好きな漫画に、こんな言葉があります。

人間は考える葦である。

「アオアシ」一条花

これはフランスの哲学者である、フレーズ・パスカルの言葉を引用した言葉です。

人間は自然の中では、葦のように弱い存在です。
ですが、人間は「考える」ことができます。
考えることこそ人間に与えられた偉大な力ある。

だからこそ、どうすれば気づくことができるのか、気づけない前提に立ちながら、模索すること、考えることを止めないことが、「気づく人」への第一歩だろうと思います。

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