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黎明

 目が乾いて、ピントの合わないコンタクトレンズ越しに見た黒板は、何かの数式だった気がする。僕の嫌いな数学の授業だった。窓際の席だったから、教師に声をかけられることも少ない。でも、真面目に授業を聞いていた気がする。配られたプリントは「連立方程式」の問題だった。教師が言う。

「この数式の答えは“解なし”です。」

 問の答えが「解なし」じゃ、設問として成り立っていないじゃないか。そう思った。
 でも、よくよく考えてみたら、正解がないことはこの世界にはよくある。哲学なんかが特にそうだ。恋愛だとか、他者の人生観とか、死生観とか。

 そんな17歳の僕にとって、己の将来でさえ、「答え」がないことが、正しいのかも、なんて思っていた。

 教室の窓からは灰色の空と、鉄塔が見えた。


 特にやることもない放課後、くだらない会話、いつもの路、スクールバッグ、チャリ、カラオケボックス、制服、ラーメン、そんな毎日の同じものだけが僕たちの全てだった。田舎の男子高校生は毎日同じことをする。家に帰れば、飯があるし、誰かのSNSをチェックして、お気に入りのAVを観て、果てて、眠りにつく。そんなルーティン。
 たまには、ちょっとだけワルな中学時代の仲間連中と夜な夜な抜け出して、バイクに乗ったり、目的もなく街に繰り出す。調子に乗って、初めて吸ったセブンスターは吹かしただけで、咽せて終わった。そんな夏だった。

 恋人と過ごした放課後もあった。「恋人と」なんて言っても、することはいつも絡む連中と何なら変わりはない。カラオケに行ったり、珈琲屋に寄ったり、駅裏でキスをしたり。どちらかの親がいない日には、家に行って、セックスをして。次の日には付け合ったキスマークを恥ずかしくも、隠して学校に行く。
 でも、そんな青い恋愛にはいつか終わりが来る。どちらか一方が恋に落ちていても、物凄く依存していたとしても、その愛の天秤は大体釣り合わない。

「X君とYちゃんたち、もう別れたんだって~」

 そんな会話が、毎月、教室で聞こえた。僕の知らない誰かが、一緒になって、別れて、を繰り返す。僕もそんな短い恋だった。将来への不安とか焦りとか、辻褄の合わない物事や結果。大抵いつも思い通りにならないことの方が多くて。いろんなことが混ざって、逼迫してきて、邪魔をして。うんざりするほど嫌な毎日だった。そんな冬だった。


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 「あなたの代わりはいくらでもいるから。」

 確か、そんなことを別れ際に言われた気がする。ブラック企業の経営者みたいな言葉。当時、その言葉はたいして僕に突き刺さらなかったけれど、今思えば、ただの強がりだったのかもしれない。君に依存して、踏まれても、それでも僕には、君しかいなくて。執着しては、都合よく引き離して。それで良かったんだ———————。


 大人になった今でも、鮮明にこの頃を思い出す。ライブハウスでこの「黎明」を唄っては、思い出す。酒の席で友と笑いながら昔の話をして、思い出す。未来に媚びるとき、この「過去」を思い出す。眠れずに見た朝焼け。ふがいない僕はあの空を見て、自分が分からなくなっていた。

 だけれど、僕はそうやって「今」を生きている。過ぎ去ったことはもう捨てて、夢を描いて、あの日見た「黎明」のその先へ行きたい。

「諦めきれないのは、お前も同じだろ?」 

と、誰かに言われた。

 将来を思い描くとき、僕らの現在進行形の人生は光り輝く。

だって、人生は思ったより、短いのだから。



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