100日後に年越すオレ 88日目「さ:サポーター」
”いろは順”エッセイの三十七日目、本日は”さ”です。
"さ”で選んだ題材は、「サポーター」。「サポーター」という言葉自体はいくつかの意味がありますが、今回は僕が20年ほど続けている、サッカークラブの支持者・ファンを表す「サポーター」について、話したいと思います。
なぜサッカー(フットボール)クラブの”熱狂的な”ファンを「サポーター」と呼ぶのか、について所説あるようですが、フットボールの母国であるイギリスでも”Supporter”と呼んでいるので、それを日本でもJリーグ開幕と共に使い出したということでしょう。ちなみに数年前に始まったバスケットのBリーグでは、ファンの事を「ブースター(Booster)」と呼びます。
ファンとサポーターの違いについては、日本サッカー協会の公式Q&Aページに以下の解説がありました。過去形なのはなぜか今は消されているからです。リニューアルによるものだと思いますが、わざわざ消したのは何故なのだろう?? アーカイブから引っ張り出したのが以下です。
一般的に、サッカー好きな人をファン、熱狂的なサッカーファンや特定のクラブチームを支持している人をサポーターと呼んでいます。
サポーター(supporter)は直訳すると「支持者」で、「特定のクラブチームなどを応援(支援)する人」という意味があります。ファン(fan=愛好家)とほぼ同義語ですが、クラブは地域に密着していることが多いので、より強い意味の「サポーター」という言葉が好んで使われます。現在はサッカー以外でも頻繁に使われています。
フットボールの世界では、「サポーターは12番目の選手だ」なんてことをよく言われます。また、”ホームアドバンテージ”という概念があるように、自身のスタジアムで行われる試合は、サポーターの大声援によってホームチームの方が有利になるとされていて、その効果は公式ルールで”アウェイゴール”というルールがあることからも明らかです。
アウェイゴール
ホーム&アウェイ形式でのトーナメントなどでは、勝敗が一緒で得失点差も同じ場合、アウェイゴールが2倍にカウントされるルールのこと。これにより多くの劇的な試合が生まれてきた。
ちなみにホームアドバンテージの考察は以下のページが面白いですね。
とまあここまでごちゃごちゃと書いてきましたが、ここからが書きたかったことです。要はサポーターの人生ってどうなの?ってことですね。
まず初めに僕自身のサポーターレベル(遍歴)を述べておきましょう。
サッカー自体は小学校時代のJリーグ開幕からずっと見ていて、J開幕当初は何故かサンフレッチェ広島を応援してました。”アジアの大砲”高木琢也に今や監督となった風間八宏と森保一のダブルボランチ、あとは盧廷潤にハシェックなどなど。そんな個性的な選手が活躍して1994年にはファーストステージ優勝を成し遂げたわけですが、当時の沖縄ではサンフレッチェの試合の様子は毎週土曜日の夜に10分間だけやっていたラジオ番組「独占Jリーグエクスプレス」頼みだったので、毎週ドキドキしながらラジオを聞いたことを今でも思い出します。そうした意味では今のサッカー視聴環境の恵まれていることったらないですね。
そんな僕ですが、当時はスタジアムに応援に行くことはおろか、テレビ中継を見て応援することも出来なかったわけで、到底「サンフレッチェ広島サポーター」では無かったわけですね。
その後はそこまでひいきのチームも無くなり、フランスワールドカップを経て2000年に大学進学で上京します。そこがある意味転機でした。僕が引っ越した先の千葉県柏市にはその柏市を本拠地とする柏レイソルがあり、また同時に自宅のテレビでは東京MXテレビが映るので、FC東京の試合中継を見ることが出来たのです。サッカーの情報に飢えていた僕にとっては天国でした。
何故柏レイソルじゃなくFC東京を応援することになったのか。それは2000年にFC東京に移籍してきたとある選手がきっかけです。喜名哲裕、沖縄県出身のサッカー選手であり、ちょうど僕らの世代の時に高校インターハイでベストイレブンに選べれるなど、ちょっとしたスターだった選手でした。那覇西高校を卒業した後は名古屋グランパスに入団。当時監督をしていたあのアーセンベンゲルの”秘蔵っ子”なんて呼ばれて期待されていたものの、度重なる怪我もあって活躍できず。そこで心機一転移籍したのがFC東京だったわけです。
(ちなみに柏レイソルも好きですよ。サポーターじゃないだけで。明神とか洪明甫とか好きだったし、ホームスタジアムである日立台にも何度も行きました)
自分自身の上京のタイミングと、FC東京への移籍のタイミングが一緒だったこともあり、何故か当時のアイドルだった喜名選手に自分を重ねたんですかね。2000年当時は結構試合に出ていたこともあり、いつの間にか毎週のように東京MXテレビの試合中継を見るようになり、そこでアマラオや佐藤由紀彦、土肥洋一などに東京ガスの社員選手だった浅利悟といった面々に心を奪われ、当時は国立競技場をホームスタジアムとして使用していたので、そこで初めて試合を生観戦したのでした。
翌年2001年の開幕戦から2018年までは開幕戦の観戦は続けていましたし、その間に年間チケットも何年も保持しているくらい、応援し続けていた感じです。
2004年と2009年のナビスコカップ、2011年(2012年元旦)の天皇杯とこれまでのタイトル獲得の瞬間は全て現地で見届けることも出来ましたし、二週間後のルヴァンカップ決勝(2021/1/4キックオフ)も、それに続くと信じています。
2000年に時を同じくして応援するようになったのが、イングランドプレミアリーグのLIVERPOOL FCでした。元々は日本でも騒がれたマイケルオーウェンが所属するチームなんだ、という認識しかなかったんですが、何かのテレビ番組かサッカー雑誌かで、クラブの応援歌であるYou'll Never Walk Aloneと二つの悲劇(ヘイゼルとヒルズボロ)のことを知り、クラブの歴史に興味を持ったことがきっかけで追いかけるようになりました。当時の情報入手手段は限られていたはずで、ネットを駆使して色々と見ていた気がします。
リヴァプールはというとその後にカップトレブル(三冠)を実現すると共に、ニュースターとしてスティーブンジェラードが登場。物凄く大きなスケールに、いつしか引き込まれるようになったので2002年以降でしょうか。
その後は僕もWOWOWに加入して海外サッカーをよく見るようになり、欧州ナンバーワンのクラブチームを決める大会、チャンピオンズリーグについてはリヴァプールの試合を中心に毎晩見てましたね。そして伝説の”イスタンブールの奇跡”を迎えることになります。2005年のことでした。
前年の2004年に応援しているクラブが優勝する瞬間を見届けることの素晴らしさを体感(FC東京のナビスコカップ初制覇)していた僕は、10年以上ぶりの決勝に勝ち進んだリヴァプールの勇姿を同志たちとリアルタイムで応援したい、と恵比寿のフットボールバーである”フットニック”へと足を運びました。
当時のチャンピオンズリーグの決勝戦は平日開催。社会人一年目だった当時の僕は、一度帰宅して仮眠をとってから終電で恵比寿に向かい、そしてそこからずっと飲み続けながら試合を観戦。当時の日本での人気は対戦相手だったACミランが圧倒的に高かったんですが、フットニックにはリヴァプールファンの方が多く詰めかけていました。
試合展開はあえてここでは触れませんが、3時間にわたる激闘が終わったのが朝の6時過ぎ。もちろん祝杯をあげちゃいますよね。結局7時過ぎまで飲み続け、数時間後にはかなりのお酒の匂いを漂わせて出社したのでした。なんて一年目だ!と思いますが、その当時の会社の社長も大のサッカーファンだったので、笑って許してくれたという思い出があります。いい会社!
結局のところ、真の意味でサポーターになるということは、苦楽を共にしたという感覚を持てるか、ということなんだと思うんですよね。別に新参サポをないがしろにしたいわけじゃないし、むしろ仲間を増やしたいわけですが。ただやっぱり「ある体験」を一緒にしてるかどうかって、どうしても何かの際には分かれてくると思うんです。
例えばFC東京のサポーターの視点で言えば、東京ガスからFC東京に変わった瞬間、J2からJ1へと昇格した瞬間、ナビスコカップ初制覇、レアルマドリードとの対戦、スペイン遠征、J2降格→J2優勝→天皇杯初制覇の1年間、そして昨年の優勝争いといったタイミングでしょうか。
リヴァプールの場合、70年代の黄金期、80年代の2つの悲劇、カップトレブル、イスタンブールの奇跡、H&Gによるクラブ経営の失敗、ジェラード移籍騒動、そしてクロップ招聘によるチャンピオンズリーグ制覇(&奇跡のバルセロナ戦)とプレミア初制覇でしょうね。
そう思い返すと、クラブの歴史を共有できる機会があることが重要なのかもしれません。もちろん降格やクラブの消滅危機のようなネガティブな機会というのは避けたいところですが・・・。
あとはワンクラブマンだったりクラブを象徴する選手の引退もありますね。それは中村憲剛の引退セレモニーを見ながら思いました。
サポーターには早いも遅いもありません。ただサポーターとして語れる思い出を多く持ちたいのであれば、一日でも早いサポーターデビューが必要です。「どこかのサポーターになりたいなあ」と思った方は是非FC東京とリヴァプールを検討ください!(笑)