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あの頃のネット界は人の温もりがあった~ロックの日に寄せて~

小学校6年生の頃、担任だったK先生は大のブルーハーツファンだった。うちの小学校ではお昼に学級ごとに好きなものを流せる習慣があって、いつもは地元沖縄で人気のFM番組「ハッピーアイランド」を流していたのだけれど、時折K先生の趣味の曲を流していて、実は結構それが楽しみだった。

当時の自分は、熱心なJ-POP信者で、小学校5年生くらいから近所のCDショップに入り浸り、なけなしのお小遣いのほとんどをシングルCDの購入に充てていた。
その時はもちろんインターネットなど無く、情報源はラジオ番組とテレビの音楽番組。特にチェックしていたのが「赤坂泰彦のミリオンナイツ」「裕司と雅子のガバッといただき!!60分」だった。テープレコーダーがメインだったので、ヒット曲を丸々流してくれるガバッといただき60分をテープに録音して、それを更にダビングしてヒット曲を集めたテープを作ったのは良い思い出。
そうしてヒット曲はラジオの録音で済まし、そこから派生して興味を持った曲をCDショップで購入するという音楽ライフだった。そのうちCDショップのオーナーさん(といっても6畳くらいの広さのお店だったので、音楽好きがたたって脱サラして始めたお店だったのだと思う)からオススメされた曲を聴いては、知識を深めていったように思う。時には予約特典のポスターを融通してくれたこともあったっけ。

話を元に戻して、J-POPばかり聴いていた自分にとって、ロック好きのK先生が時折流す曲はとても新鮮で、中でも度々流してくれていたブルーハーツが鮮明に記憶に残り、実はそれが自分の音楽を志す第一歩となった。

ブルーハーツは残念ながらそれからほどなくして解散してしまい、嘆いていた時にハイロウズに出会い、同時に中学1年生からギターを始めた。うちの中学校は大学の教育学部付属の学校だったので、毎年何人も教育実習生を受け入れていたのだけど、そうした教育実習生の中にはもちろんバンドをやっている大学生が居て、若い自分はその中の一人のギタリストと懇意になり、その人のアパートに一度遊びに行ってギターを触らせてもらったのが、初めてギターに触れたタイミングだった。今思えば良い人だったな。先生になっているとすれば良い先生になっている気がする。もう25年くらい前なので、教頭先生とかになってたりして・・・。

そんなこんなでギターに目覚め、親に頼んで初心者ギターセットを購入すると共に、近所のギター教室に通うようになった。そのギター教室は地元ではなかなか有名で、一つ上の先輩であったモンゴル800のキヨサクさんも通っていた教室。名前は「ムー」(笑)。古本屋も併設していたので、だいぶ変わった教室だった気がする。そのギター教室では、何故かドラムの練習の方が多かった、曰く「ギタリストこそリズム感が大切!」ということらしく、通っていた2年間でギターよりもドラムが上手くなったのだけれど、それはそれでその後のバンド活動で役立ったのは事実。そういう意味では正しかったのかもしれない。
この教室ではドラム演奏と共に、ロックの歴史を教わった。ブルーハーツが好きということで、じゃあそのルーツを探ろうと、Muddy Watersのようなブルースから、Chuck Berryやプレスリーといったロックンロールの元祖、そしてビートルズやジミヘン、3大ギタリスト達など、多くのロックアーティストを教えて貰った気がする。

そんな時に熱中して読んでいたのがこの本で、これを読んで多くのロックアーティストのことを知り、レンタルCDでそのアーティストのアルバムを聴くといったことを繰り返していた。

そういう中学時代を過ごし、高校に進学したタイミングで、すぐにバンドを組んだ。同じ中学の友人と結託したのだ。彼もギターだったので、しょうがなく自分がベースに転向した。正直その時点でギターのように細かいテクニックが必要な楽器はちょっと飽きていたのかもしれない。だからすんなりベースに移った気がする。そうしてドラムとボーカルを見つけ、高校1年の12月には初ライブを決行。ちょうど同じタイミングで腰を痛めてしまったり、原因不明の体調不良での自宅療養もあってバスケ部を休部した自分にとっては、「これからの高校生活はバンドだ!」と決意したのがこのタイミングだった。結果そのバンドは高校3年間ずっと活動し、いろんなライブに出演したり地元のレコードショップでデモテープを販売して完売したり、先輩たちの卒業ライブでは、前座ではあったけれど当時既に地元では売れだしていたモンパチとの共演も果たしたりと、今思い返すとまずまず頑張っていたように思う。

さあ、ここからが本題。このように音楽三昧だった高校生活。沖縄に来てくれるアーティストのライブは良く見に行っていた。ハイロウズはもちろん、ミッシェルガンエレファントも見たし、当時流行っていたメロコアやスカコアのフェスにも良く行っていた。特にスカは沖縄のビーチで良くライブをやっていたしね。そしてそんな中で出会ったのが、地元沖縄のバンドを集めて行っていたライブイベント”Clap Hands”であり、そのトリを務めたEAST WOMANというバンドだった。

そのライブで初見だったにもかかわらず大ハマりしてしまい、早速CDをその場で購入、そして当時はまだまだ利用者が少なかったインターネットでファンサイトを見つけ、勢いのままにその掲示板でこの感動を書き込みしてしまった。それが当時の沖縄のインディーズ業界とのコンタクトの第一歩だった。
そこからそのサイトの管理人さんやそこに集う音楽好きの人たちと掲示板でワイワイやりつつ、沖縄で行われるインディーズのライブで直接会ったり、その後にクラブに遊びに行ったり、バンドの人たちがオーナーをしているバーに顔を出したりと、いつの間にか色んなバンドの人たちに良くしてもらった。その分、色々とお手伝いもしていて、知り合ったイベンターの方々が開催したイベントではスタッフとして、お客さんの誘導や物販を担当したこともあったっけ。あとはもしもの時には、ということでいつでもヘルプでベースを弾けるように練習もしたり。

そう考えるとあの頃はとてもゆるかった。まだインターネットを使っている人、もっと言うと自分でサイトを持っていたりする人は限られていて、それもあって身近に溜まり場が出来ているようなもので、少しの勇気さえあればすぐにその中に飛び込むことが出来た。大好きだったEAST WOMANとは顔見知りになり、大学で上京した後は追っかけのような感じで毎月下北沢や渋谷などのライブハウスへ通った。
はたまたネットのファン掲示板で知り合った人たちの家に泊まらせてもらったりもしたし、インディーズバンドのライブの打ち上げに顔を出させてもらったり。今ももちろんそうしたことは行われているんだと思うけど、沖縄から出てきたばかりの若造がネットのコミュニティのお陰でこうして東京で様々な縁が作れたということにとても感動していたことを今でも覚えている。
そういや頼まれてとあるレーベルの単発アルバイトを何度かしたこともある。ファンクラブのための郵送物の梱包だったかな。それもネットを介しての依頼だった。そう、20年前に沖縄から上京してきた自分にとって、ネットの繋がりが正に”東京”という憧れの場所と自分を結び付けていたのかもしれない。

そういうご縁も、いつの間にか疎遠になってしまい、当時はFacebookやTwitterも無かったので、もはや連絡を取る手段が無い人ばかり。あの人はいまどうしてるんだろう?と思いを馳せた、ロックの日だった。

ちなみにEAST WOMANは2008年に活動休止も16年に活動再開、昨年は1stアルバム発売20周年を記念してのライブが、沖縄のヒューマンステージで行われた。またいつか東京で見たいな。

※ヒューマンステージの今月末での営業終了がアナウンスされました。思い出の場所がまた一つ・・・(涙)




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