誰よりも信じていたものに突き放された話
数ヶ月前のある日、私は幸せな心地で布団についた。理由は珍しくリアタイした直前のラジオ。スマホの中の憧れの人が語るこれからは、相次ぐ公演中止に心を麻痺させ始めていた私に夢を見させるには十分だった。「楽しみにしてて。」その言葉だけが、私の世界に灯る唯一のあかりで、その言葉だけが一縷の望みだった。この人は凄い人だ。そう噛みしめながら、布団に潜り込んだのだった。
数日後に発表されたのは壮大なクラウドファンディングの企画だった。盛り上がるタイムラインを横目に私は1人もやもやしていた。もやもやの正体は、「#舞台を救え」というタグ。さも演劇界全体が生き残るための企画のように振る舞いながら、その中身はほぼ自社製品や傘下のものを対象にしていると感じたからだ。この春夏、私の推しはネルケの噛まないストレートの舞台に出る予定だった。このクラファンへの支援で、推しに利益はあるのだろうか。推しが出演するはずだった劇団や劇場は救われるのだろうか。そう考えるとなんだか「舞台を救え」というキャッチコピーが印象操作のようなものにすら感じてしまった。だけど、私も子供じゃないからわかる。キャッチーで使いやすく、わかりやすいスローガンは企画を盛り立てる。ネルケだって今は生き残りがかかってるんだ。私の初2,5作品は例に漏れずネルケ作品だったし、大好きな作品が沢山ある。純粋なネルケへの支援の気持ちがあったから、少し違和感はあったけど、喜んで協力するつもりでいた。
それから毎日、「応援コメント」という動画が流れてくるようになった。クラファンの締め切りが迫った今日の段階でも、私の推しのコメントは上がっていない。ついこの前、初めてネルケ作品に出たばかりの別の推しはいるのに。不安になった。手っ取り早く支援を得られるような、わかりやすい人気のある役者しか本企画にも呼んでもらえないかもしれない。バイトも仕事も満足にできないこの状況では決して高くない額の支援金を入れても、推しは企画に呼ばれず、出演料という収益を得ることができないかもしれない。判断の時を迫られる中、ようやく、締め切り3日前にしてやっと、「参加券」を消費して見られる企画の詳細とやらが発表された。
まずは、推しがいたことに安堵。呼んでもらえた。久しぶりに「出演者」の欄に並ぶその文字が見られて、純粋に嬉しかった。しかしどこを見ても、いつ、何時に、どの公演に出るのかがわからない。何公演参加するのかもわからない。そこで初めて参加券の値段を見てびっくりした。1公演5000円も正直オンラインにしちゃ高くねえかと思わなくはなかったけど、このご時世に新しく企画を立ち上げて公演を行うんだから、これくらいは全然出す。だけど、参加券が増えるごとに単価が上がる仕様はなんだ?逆なら聞いたことある、カフェのコーヒー券とか、電車の往復切符とか、ああいうのは大体4枚分とか10枚分とかの金額でおまけが1枚付いてくる。それが、1番安い参加券が5000円なのに対して、3枚綴りの参加券を得るには30000円払わなきゃいけないのは何故だ。増える特典は「定額制のシアコンのコンテンツ1ヶ月無料視聴権」。月額費15000円もかかるの?コンテンツ開始後に月額を払う人は一体いくら支払うことになるの?もう訳がわからなかった。8公演全部見るには20万円の支援をする必要があるらしい。20万。大卒の初任給全部払ってやっと8公演。私たちが普段見に行ってる舞台でも、1回25000円掛かるものはない。私は舞台を観るとき、その空間や、時間にお金を払っている。その日その時キャストが放つ熱、呼吸、音。ちょっとしたハプニングやアドリブなど、生を間近で体験できる権利に、同じ空間で同じ酸素を共有する権利に、価値を感じてる。演劇1公演が日給くらいあっても出せるのは、それ相応の価値があるから。生で会えるわけでもないのにその生の舞台よりはるかに高い金額設定なのに違和感を感じるのは私だけじゃないはずだ。
ましてや。推しがどんな企画に出るかもわからない。生放送一発なのか、アーカイブが残るのかも、その時間空いてるかも、通信状態がどうなるかも、何もわからない。見られるかもわからないのに、何公演出るかわからないから多めに参加券を買わないと不安。こんなのもう、搾取する気満々と言われても仕方ない。役者を応援する人間の、「推しが見たい」という純粋な気持ちを利用して、少しでも多額の支援をしてもらおうとしてると思われても仕方ない。現状スケジュールが決まっていないということは、下手したら出演自体がなくなる可能性だってある。私たちの支援金をもとでに運営をして、雇用を生んで、キャストやスタッフに賃金を発生させるんだったら、正式な「キャスティング」なら、日程決めてスケジュール押さえるものじゃないの。彼らはどういう経緯であそこに名前を並べているのだろう。何も見えない、不透明なクラウドファンディングは、不安しか与えてくれない。
私にとってネルケは、大好きな作品を作る凄いところだった。原作が好きな人、役者が好きな人、それぞれの想いを汲んで、私たちファンに素敵な作品を届けてくれる場所だった。だからきっと、今回も、「待っててくれるお客様のために」って言葉に嘘はないって思ってた。きっといろんな意図や理由があって、今はこれが最善手だから、こうするしかないんだって、今でも信じてる。だけど、クラウドファンディングって、確かに根本にあるのは救いたい、力になりたいっていう慈悲の心かもしれないけと、でも募金じゃなくてクラファンなんだから、「リターン」ありきの援助なわけで。今の状態は「確実なリターンの存在」っていうクラファンの根幹の部分が揺らいでいる状態で、そうなるともはやクラファンとして成立してないのではないか。「皆様の支援に対して、感謝の意として」とかいう、善意によって成立するものという形を支援者に求めながら、主催側は商売としてしか動いてくれないし、隠そうとすらしてくれない。商売としてやってくしかなかったなら、善意を搾取するような方法取る必要なんてあったの?最初からシアターコンプレックスというネルケFCみたいなものを月額制の会員サイトとして作って、会員向けのオンラインイベントを随時チケット販売する形じゃダメだったの?よくわかんない缶バッジやトートバッグを印刷するお金でイベント1本増やせなかったの?私の頭はぐちゃぐちゃだよ。
クラウドファンディングはシステム上、何人そのコースを支援した人がいるのか可視化されている。20万のコースにも、支援してる人がいることも、みんな見てわかるようになってる。オタクはすぐ競いあう。誰が一番沢山観劇したとか、どっちの方がブロマイド持ってるとか、いくら積んだのかとか。「出るかもわからないけど推しが万が一全公演出た時のために20万払えるオタク」という称号のために、無茶しなきゃいけないみたいな雰囲気がどこかにあるのも辛い。もはやここにあるのは善意なんかじゃなくて、もみくちゃにされたなけなしの愛と競争心ばかりだ。ただ純粋に、久しぶりのお仕事に喜びたかった。画面越しでも会えるの嬉しいって笑いたかった。誰よりもファンと、そして推しのこと、舞台に関わる役者のことを、大切にしてくれていると思っていたのに。名を連ねてる1人1人が、しっかりと手を繋いでもらえているのか、それとも突き放されたのか。その手は今どこへ向けられているのか。支援締め切りまであと1日。決断の時が迫られている。ネルケのために、お金出したかったよ。推しがいるから支援金出すけど、このお金にネルケへの気持ちは1ミリもない。ぐちゃぐちゃのお札握り締めて、明日の朝入金してきます。