推しをタグ付けする人間と相容れないオタクの話

前回は最初の記事だったので、大ボリュームでお送りしたけど、なんかもっと、気軽に思ったこと書いていく場所にしようかな、とふと思い立ちまして。

あの頃、私の生きる糧だったあのブログみたいに。些細なことでも切り売りしてみようかな、なんて。

この世に溢れてるオタクのブログって、みんなポジティブっていうか、前向きだよなって思うんですよね。そして私のことも、そんなキラキラしたお金にも環境にも恵まれたポジティブオタクだ、って思ってる人が少なからずいるらしく。でも本当の私はものすごく卑屈だし、ネガティブ。特に本命が関わるともうダメダメ。で、そういう心の弱いところに、共感できるような記事ってないのかなあと、ずっと思っていた。多分私自身が見つけたかった、私以外の誰かにはほとんど必要のない、だけど私みたいな、共感してもらえる人がほんの一握りしかいない人間が、もし目について、私だけじゃないんだなあとちょっと気が楽になるようなブログ?になれたらいいなあって。まぁそれで、救われるのは私なんだけど。

前置きが長くなりましたが。とにかくこういう経緯で私は私のネガティブオタク思想を公開してみることにしました。きっとこの世の大半の人には不要な文だと思うので、暇つぶしにも向いてないということだけさきに忠告しておきます。

さて、本題に入りましょうか。

令和の世においてタレントにもオタクにも必須アイテムと化したSNS。そのストーリー、ツイート、投稿、そういうものに、推しをタグ付けられる人間のことが、私は長いこと理解できなかった。がっつり現場オタクを始めたのは高校2年の時、そこから数年間、推しを気軽にタグ付けする人間を見るたびにただただ不思議で首を傾げた。「なんでタグをつけるんだろ。」というボヤッとした違和感は、何年か前にようやく言葉になった。

「なぜ彼女たちは、自分の投稿が、言葉が、本人に喜ばれると信じて疑わないのだろう。」

考えすぎ、ネガティブすぎ。何度そう言って笑われてきたかわからないけれど。「そんな嫌悪持ってるとは限らないじゃん!」というのならば、それと同じくらい「全面的に喜ばれるとは限らない」と思うんだけれど。私たちが生きている人間であるのと同じように、向こうだって感情のある人間だ。私たちが寝坊して焦ったとか、客や上司に理不尽押し付けられたとか、終業後の楽しみにしてたプリンが売り切れてたとか、そういうので同じ物事でも受け止め方が変わるように、推しだって日々色んな物事を受けて気持ちが動いてて、余裕がない時もあると思うんだ。

もちろん、自分の大好きな人、きっとそれぞれが「いいな」と思える一因がそこにもあると思うんだけど。私だって推しのことは、親切で丁寧ないい人だと思ってる。彼の「もらう手紙が力」って言葉に偽りはないと信じたい。でも、リプライや手紙の、「その人だけに向けた言葉」と、ストーリーやツイート、投稿の「公に向けた言葉に対して対象を視認させる目的」でタグをつけた結果本人に伝わってるもの、は、ちょっと質が違うんじゃないか?と思う。そこにあるのはマウントだったり承認欲求だったり、推し1人への想いではなくこれを見るその他大勢に向けたなにかしらの思惑だ。見世物じゃない、お前の投稿のための飾りじゃない。と、すぐに話をややこしくする私なんかは思ってしまう。純粋に推しに言葉を届けたいならリプライでいいよね?手紙でいいよね?少なからずそこには「公共に発信したい」という、純粋な言葉とは違う何かがある、と思う。でもそれが悪いって言ってるわけじゃない、公に発信したいほどの推しっている、大きな声で叫びたい愛ってある、それについてはこの数年で理解できたつもりだ。だから別にそれを悪だとしている訳では全くないし、非難したいわけじゃない。ただ、そういう人間と私とでは本質的な生き方が違うんだろうな、と目の前に広がる大きな溝を呆然と眺めているだけなのだ。その二者の差は、それができる人間と、できない人間の違いは、一つだけだと思う。

自分の行いを他人に肯定され、喜ばれてきた、人に愛されてきた人間か、そうじゃないか。

まぁ簡単な話、今まで嫌がられた経験がない人なんだろうなってこと。もっというと、「嫌がられたと思ったことがない人」だ。本人がちょっと思うことがあったとしても、こっちがそれに気づいてなきゃそこには100%の善意と、その善意は全面的に肯定されて喜ばれた、という結論しか残らない。なかには、相手の機微に目を向けない自分本位な人もいるけど、そういう人って多分、もらった結果よりその人がそこにつぎ込んだ善意自体に価値を持ってもらえる、人に愛されてる人間なんだなぁって思うんですよ。「なにをしたか」より「誰がしたか」に価値を出せる人。注いだ愛をその分返してもらえてきた人間だろうなって。ないでしょ?推しに甘いものあげた数日後に「甘いもの嫌いなのに、甘いものは喜ばれると信じて疑わずに渡してくる人、なんなんだろう」ってブログ書かれたこと。(まぁ、その人のそういうとこが好きだったけど。説明すると長くなるので割愛するがこの人が人でなしなわけではないのでその点理解してほしい。)そしてそういう、自分の贈り物(=この場合文や写真)がまっすぐ受け止めてもらえると信じている人の書く文は、美しくまっすぐだったりする。疑いがない分、愛を注がれてきた分、曇りのない眩しい文を書いたりする。だからきっと、喜ばれてると思うんだ、結果。だから、私は羨ましい。

これからも多分一生、私には理解できないと思う。リプライすら滅多にできずに、年に一度するかしないかの私だし、タグ付けなんておこがましくて全くする気になれない。そういう人たちのこと、頭では理解できても、心は一生理解しないと思う。きっと私は一生、そんな人たちが羨ましくて、そして別の人種だと、一生そっち側にはいけない寂しさを抱えて、羨望と嫉妬の間で揺らめき続けるんだと思う。こういう生き方しかきっともうできない。そちら側にいられる人は、どうかその時間を楽しんでほしいな。心は共感はしないけど、そういう光属性のオタクが支えてると思うんだ、推しのこと。私の分もよろしくねと、思っているよ。

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