誰かに必要とされている人間アピール
職場の人たちで休日に遊びに行く話が出てきた。「楽しそうだな、みんなでワイワイするのかな」と思って参加を表明してみたところ、その後に半分以上の人が欠席表明をしていた。参加の有無を問われなければ「いいね!」というリアクションをするが、いざ決断を迫られると「ごめんね」と断られる図式がきれいに作られていた。
各々事情があるので行けないのはしょうがないとして、自分が馴染みのある場所で集いがあるといつも嬉々として「行きます!」という態度をとってしまう自分が、ものすごく惨めに思えた。自分が帰属していると思えるコミュニティが複数ある人が羨ましい。今回の集いが「じゃない方」として扱われた瞬間に「あ、そうですよね」と心がズキッとする。
視野が狭くなると思考がネガティブになり「会社以外に居場所のない人たちが、寂しさを紛らわすように見られているのではないか」という思いがわいてきた。与えられた場所で真面目にコツコツと働きそれ以外の場所を開拓することもせず、会社という人間関係の構築が楽な場所で寂しさを紛らわそうとする自分が嫌だった。そういう人に対して蔑視感情を持っているから、自分で自分の首を絞めているのだろう。
死んだ顔をしてコンビニで安い缶チューハイとおつまみを買って帰り、テレビを見て笑うおじさん——二十歳そこそこの頃、その情景を哀愁漂わせ気味に描画していたイラストをSNSで見たとき「自分はこうはなりたくない」と思った。ひとりの状態がしずかな悲壮感とともに、重々しい空気を抱えているように感じたから。しかしながら、今の自分はそのおじさんとほぼ同じ状態であり「今の状態を後ろ指刺されて笑われたくない」「馬鹿にされたくない」というちっちゃくて下らないプライドを持っているんだな、とこの文を書いてて気づいた。かっこつけて「あなたたちには見せないけど、魅力的なプライベートの自分がいるんだよ」と、今回の遊びに行く話を断った人たちへアピールしたいのかもしれない。
私は劣等生ではないから、孤独にまみれて毎日やることがないってボーッとして人生を無駄遣いしている中年のおばさんじゃないから、どうか哀れみを持った目を向けないでください。どうか蔑称を含んだ目つきでこちらを見て「あいつは仲間に入れない」という態度を取らないでください。
・・・こんなことを無意識に思っているのだろう。仲間外れが怖いのは相変わらずというか、この思考はなかなか拭えない。過去の体験をなかなか乗り越えられず、今を生きればいいのに過去を現在に勝手に被せて、自意識が風船みたいに膨れ上がっているんだな。主観でも地獄だし客観的に見てもダサすぎて結構キツいなーと思った。こんなこと思っている時点でこう思われているよなぁ、と冷静にもなった。
自分はそこまで友達もいないし、人にキラキラした側面を端的にPRできるほど素敵な人生を歩んでいないし、一芸に秀でているわけでもない。人の集まりも苦手で口下手。競争社会で弱者として切り捨てられがちなタイプであることも知っている。そういう自分を隠して「自分は強いんですよ」とまわりにしずかに喧伝しないと、また自分が傷ついてしまうと感じる。・・・”また”って何だろうなと思うけど、馬鹿にされたり「あなたは要りません」という扱いをされた経験(具体的にパッと出てくるエピソードはないけどずっと体験してきた気分のもの)が根性焼きみたいに、心の中に恐怖体験となって、しずかに鎮座している感覚がある。
・・・自分自身でここに書いている言葉をむけて、毎日の味気なさをやり過ごしているのだとしたら、そりゃあ人生つらいし人と比較するターンで自分が劣っていると思えるタイミングがきたら「そらきた!自分はダメなんだ!」と自己否定まっしぐらな考え方をしてるなと思い、自分が自分をいじめすぎなのかもしれないなと思った。自分のことが嫌いで嫌いで仕方がないからここに書いてあるような自己否定の言葉はすらーっと出てくるけど、自分を褒める言葉はなかなか出てこなくて、ちょっとした地獄を毎日過ごしては満足しているのかもしれない。
そうなると、今回みたいなことがあるたびに「他の人は他人に必要とされる価値がある人だけど、私は価値がないんだ」といった形で思考を使った自分いじめを継続して、いつしかひとりで生きるための心がポッキリ折れてしまう気がした・・。思考を変えないと今回みたいな形で落ち込むことが多いのだな、という気づきを得られてよかった。
おわり。