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我見の失策。一頭の驢馬を引っぱった親子、軽毛の凡夫
願のない者は危険千万な奴です。危険思想は願のない奴です。願なしで、むやみに飯を食うているのは食い潰しです。願なしで子供ばかり製造しているのも食い潰しをこしらえるようなものです。
願のない者は人の口車に乗って、どっちへ転がるか分からん。自分の方針のない奴は困ったものです。
向こうから一頭の驢馬を引っぱった親子が来た。すると通りすがった人が「なんと感の悪いバカだろう、動物を利用することも知らんで、親子で歩いている」と言った。そこで親爺が「オイあんなことを言うている、お前乗れ」と子供を乗せた。すると、また向こうからやって来た男が「子供よりも親が乗るのが当たり前じゃないか」とつぶやいた。「よしきた、おれが乗る、われ歩け」と言って今度は親爺が乗った。するとまた「なんという親爺だろう、子供を歩かせて可哀相なことだ」と言って通り過ぎた者がある。それならばというので今度は二人で乗った。そうすると今度会った人の言うには「なんと愚かな親子だろう、あんなに動物を虐待している」。これを聞いて二人は驢馬から下りて、四本の足をくくって棒を差し込んで担いで戻ったという話がある。
これは願のない、方針のない、自分の生活が目標に向かっていない人間で、これを軽毛の凡夫と言う。軽い鳥の毛がフワフワしていて、風の動く通りに動き、人の噂通りに動くのである。だから人の煽てにも乗る。どっちを向いて行くか訳が分からん。だから願のない者は危険だと言うのである。
中学校を出ても文科へ行くのか理科へ行くのか分からんでいる者がある。高等学校を出てからでもブラブラしている。まぐれ当たりにぶつかろうというのであるが、たとえば朝起きても、今日の願がなければ、どっちへ向いて行くのか訳が分からん。今月には今月の願があり、今年は今年の願がなければならない。
人類には人類としての願があり、日本人には日本人としての願がある。また僧侶は僧侶としての本来の願がある。農民は農民、商人は商人それぞれの願がなければならぬ。願があれば必ず成就するわけである。
出典:「禅談【改訂新版】」著者:澤木興道 出版: 大法輪閣