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通り雨

一瞬、手に持った荷物が軽くなった気がした。あれ、と立ち止まり手元を見ると、鞄の持ち手の隙間に押し込んだはずのジャンパーが、マンホールの蓋の上に落ちてしまっていた。さっきまで降っていた通り雨のせいか、マンホールの蓋の溝に水が溜まっていたようで、拾ったジャンパーの裏起毛がしんなりと濡れてしまっていた。
「はぁ~」俺は思わず溜息を漏らした。なんだか今日はツイテない。いや、今日も、といった方が正解かもしれない。なんとなく大学を出て、なんとなく今の現場仕事につき、なんとなく毎日働いてはいるけれども、モテ期が訪れる要素もなく、女っ気のない現場でただ働いて一人の部屋に帰る毎日。そういや俺今年38歳になるのか。昔の友達は結婚したり子供ができたりしてるようだが、一体何を食えばそういう人生になるんだ? きっと、俺みたいに、毎日閉まりかけのスーパーで買った半額の弁当を食ってる先には、そういう未来はつながってはいないんだろうなぁ。

「お疲れ様でした」
え? 声がした方に振り向いた。見知らぬ女がニコニコと俺の方を見ている。誰? 何かの勧誘? 意味がわからずぼーっと女の顔を見ていたら、女が口を開いた。
「さっきジャンパー落とされたでしょう。私、後ろ歩いてて、拾ってあげようと思って駆け寄ったら、立ち止まってずっと溜息ばっかりついてたから、お仕事お疲れなのかなと思って」
「え、あ、まぁ」
俺そんなに溜息ついてたのか。しかもそれを、この人に見られていたとは。しかしこの人、よく見ると笑顔が可愛いなぁ。
「それじゃあ。お仕事頑張ってくださいね!」
俺が淡い期待を抱く間もなく、可愛い笑顔だけ残して、その人はすぐ先のビルに入って行ってしまった。追いかけようかと思ったが、仕事終わりのよれっとした作業着だし、俺なんかに声かけられても嬉しくないだろうしなぁ。そう思うと勇気なんて出てこなかった。

家に帰って、いつものように冷えた弁当をレンジに入れ、缶ビールを開ける。お疲れ様でした、かぁ。あんな可愛い笑顔で言われたら、疲れなんてすぐ吹っ飛ぶのにな。お仕事頑張ってくださいね? うん! 俺頑張る! 全力で頑張っちゃう! にやけたところでレンジがチーンと鳴った。目に入るのは、窓と長さが合ってない緑のカーテン、朝出た時のままのシングルベッド、自分が座るところ以外はごちゃついてる、いかにも男の一人暮らしの自分の部屋。はぁ~。なんで俺いつも一人なんかな。なんも悪いことしてねぇのにな。そう思うと何か込み上げて来そうになった。ビールを一気に飲んだ。空きっ腹に飲むと一気に酔いが回る。無性に女が欲しくなって、スマホの動画からあの人に似た女優を探しまくった。何考えてんだ俺は。俺みたいな男に親切に笑顔を向けてくれたんだぞ? いやらしい気持ちを思うなんて最低じゃねえか! そう思ったところで普段より大量に果ててしまった。本当に、俺は、何をやっているんだ。どうしようもない情けなさに包まれながら、何も考えないで済むように、そっと目をつむった。

寒さで眼が覚めると、もう朝5時だった。布団をかけずに尻を出したまま寝てしまっていた。あと1時間で出かける時間になる。俺はノロノロと体を起こし、トイレに行こうと立ち上がった。
ユニットバスのドアを開けると、鏡には疲れた無精髭のおっさんが映っていた。はぁ~。自分の顔なんて、朝一番に見るもんじゃねぇわな。用をたす前に風呂に湯を貯めるべく蛇口をひねった。熱い湯が真っ直ぐに落ちて湯気が上がる。隣のトイレで俺からも放物線状に湯気が上がった。同じ湯気でも喜ばれるのと嫌がられるのってあるよなと思うと笑えてきた。そのまま全裸になって頭から熱いシャワーを浴びる。このままシャワーを浴び続けたら、何もかもが流れ去って、喜ばれる方の人間にならんもんかな。昨日のあの人に、もう一度出会えることが出来たら、なんでもいいから声をかける勇気が持てるような、そんな程度でいいからさ。俺は目をつむったまま、心からそう願った。


月刊ふみふみNo.6 テーマ「卒業」掲載分
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