可愛い人
残業を終えて家に帰ると、食卓に晩酌の残骸を散らばせたまま、夫はリビングのソファーの上で大イビキをかいていた。食べ終わった食器は流しに下げてよ。寝るならベッドでちゃんと寝て。靴下は洗濯カゴに入れて。子供相手でもないのに、なぜこんな馬鹿げた小言を毎日言わないといけないのか。そして何回言ってもその通りにしない夫。私は床に脱ぎ散らかされた湿った靴下をつまみ上げ、せめてもの腹いせに寝ている夫の鼻の上にそっと乗せた。微動だにしない。なんだつまらない。キッチンに行こうと後ろを向いた時、ゴトッと何かが落ちた音がした。振り返ると、さすがに臭いには参ったようで、手で払いのけたらしい靴下と、その手で持っていたのか、夫のスマホが床に落ちていた。
靴下を拾いながら見るともなしにスマホをみると、落ちた衝撃のせいか、さっきまで見ていたらしい画面がついていた。興味本位で手にとってよく見てみる。どうやら出会い系サイトのプロフィール編集画面のようだった。
”ミノルです。35歳、175cm70kg、細マッチョってたまに言われる(笑)寂しがり屋の俺に優しくしてくれる可愛い人、誰かいないかな~?”
顔写真の欄には、二人で旅行に行ったときに一緒に撮った写真から、ご丁寧に私の部分を外して、自分の所だけをうまく加工したものが貼られていた。この写真、私が「かっこ良く写ってるね」って褒めたやつ!
私の中から、何かがサーっと消え去って行くのを感じた。もうダメだ。ないわ。二人が心地よく過ごせるようにとやっていた、日々のちょっとした努力が全て馬鹿馬鹿しくなってしまった。俺に優しくしてくれる人? 今ここに居ますけどね? そう思ったら寝顔を張り倒したくなったが、張り倒した所で何も変わらないと思い直しなんとかこらえた。悔しい悔しい悔しい! この気持ちをどうしたものか。ひとまず頭を冷やさなくては。何かの役に立つかもしれないと、出会い系サイト名と夫のIDを急いでメモを取り、靴下とスマホを床に戻してキッチンへ行った。
翌夕、家にまっすぐ帰らずカフェに寄った。メモを取り出して眺める。これを証拠にとっちめてやろうか? いや、どうせ適当な言い訳をして終わりだろう。このサイトは消したとしても、きっとまた違うサイトでやるはずだ。何か夫が2度とこういうことはしたくなくなるような、良い方法はないものか。ホットコーヒーはもう冷たくなっていた。そうだ! 夫のやっていた出会い系サイトを開き、自分のアカウントを作った。顔写真は夫好みの顔の女の子の画像を適当にネットで拾った。おっとりした巨乳看護師、将来の夢は犬を飼うこと。見た目から性格、趣味嗜好まで、全て夫好みの設定でプロフィールを作った。
“25歳、アヤです。最近仕事が忙しくて。甘えさせてくれる素敵な人と出会えたらいいなっ(//∇//)”
女性から男性へは無料でメッセージが送れる仕組みらしい。私は夫のIDを検索し、アヤになりすましてメッセージを送った。
翌日、帰宅ラッシュの電車の中でスマホを開いた。出会い系サイト経由でメッセージが来ている。夫からアヤ宛てだった。開けるか、見ないでおくか。駅に着いた電車の扉が開いた。思い切ってクリックする。そこには出会った頃の夫が私に送ってくれていたような、甘く優しい言葉がこれでもかと並んでいた。すごく可愛いね! 今どうしてる? 夕焼けが綺麗だよ、いつか一緒に見れたらいいな。見覚えのある、家の最寄駅から見上げた空の写真を添えて。スマホを持つ手が震えた。大声で叫びたいのを我慢したら、目から涙が出ていた。少しやりとりをして、後でバラして「アンタ何やってんの? バカじゃないの?」と懲らしめるだけのつもりだった。でもあまりにも昔の夫が思い出され過ぎて、今との扱いの違いに私がもう無理だなと悟った。
私は周囲に気づかれないように、目にゴミが入った風を装いながらそっとハンカチを目尻にあてた。
あれから3ヶ月。私はアヤとして、夫と歯の浮くようなやりとりを続けながらも、離婚の二文字が頭をかすめている。「お互いまだやり直せる年齢だし、あなたにも私よりもっと合う人居ると思う」と言うと、アヤが交際を迫っているせいもあってか、夫はそうかもしれんなとスマホを見ながら返事をした。夫がスマホをタップすると同時に、私のスマホが鳴った。
月刊ふみふみNo.4 テーマ「私の密かなたくらみ」掲載分
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