![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/82097892/rectangle_large_type_2_b3fd7bb538f85233843c774500cc293a.png?width=1200)
舞台に神が宿るとき_2・羽生結弦のノートルダム・ド・パリ 2022
静岡で開催されたファンタジー・オン・アイス2022千秋楽をCS放送で拝見した。オオトリの羽生結弦「レゾン」が終わり、興奮が冷めない熱気の中、アーティストたちが暗闇からステージに再登場し、サプライズ演奏が始まる。曲はミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」から「Danse my Esmeralda」。歌声とともに漂うように下手から顕れた白い人影。「レゾン」の衣装を纏い、ステージ背後を通って光の中に姿を見せた羽生はよろめき、膝をついて、すがるように「Danse my Esmeralda」を歌う歌姫に手を差し伸べる。演技というべきなのだろうけれど、渾身の「レゾン」を滑り終え、疲弊しきって引き上げた彼を見たばかりの観客たちの目に、本当に倒れそうに映ったとしても不思議はない。
焦がれるようなまなざしを送りながらも歌姫に触れることなく立ちあがった羽生は、十字を切り、この世のものではない何かに憑かれた目をして氷上へと踏み出してゆく。
「ノートルダム・ド・パリ」は2012-2013シーズンのフリーの曲だ。2013年当時は歌唱の入らないバージョンで、劇中の4曲を組み合わせた構成だったが、この日は最期の1曲「Danse my Esmeralda」に乗せて舞うコレオシーケンスからラストまでのクライマックス部分。世界中の不幸を背負ったように醜いノートルダム寺院の鐘撞男カジモドが、片恋の相手、無実の罪で処刑されたエスメラルダの亡骸を抱き、ともに死ぬことを願って歌う。ミュージカルの中でも最終曲であり、この世では報われない恋にすべてを捧げようとする男の究極の恋歌だ。
本来なら男声のパートだが、天上界まで届ききそうにに高く甘やかな新妻聖子の歌声は、流星のようなイナバウアーでリンクをゆく羽生の姿と呼応し、ミュージカルともヴィクトル・ユーゴーの原作とも違う世界を出現させていく。彷徨う眼差し、繰り返し差し伸べられる腕。純白と紫に染め分けた羽生の上着の裾は旋回するたびに舞い拡がって月下美人の花のよう。その姿は醜い鐘撞男でも、天使と悪魔を心に住まわせた炎のようなジプシー娘でもなく、永遠に手に入らない相手に焦がれる「恋」そのものの化身だ。初演から10年の時を経ながらいっそう透明度を増したように見える羽生の恋歌が、白いサンクチュアリに刻まれていく。
ともに逝こう
哀れな私の魂を解き放てるのはお前だけ
お前とともに逝くことは死ではない
熔けるようにに形を変える艶やかなスピンを回り切り、羽生は天を仰いで舞い納めた。折れてしまいそうに華奢な姿で、かろうじて踏みとどまったラストのあやうさが演技なのか、疲労のなせる業なのかはもはや判別不能だ。
この「あやうさ」こそが羽生の大きな魅力のひとつだ。どんなに大きな試合でも、怪我をして体調がベストでなくても、ひるむことなく技を尽くして挑む姿勢は17歳の世界選手権初出場でも3回目のオリンピックとなった北京でも同じ、というよりますますエスカレートしているように見える。綱渡りのような挑戦、追い詰められた極限状態でしか見えてこない、手に入らない何かを追いかけているのだろうか。
応えてはくれない相手との永遠を望む切ない歌と、性別を超越したような羽生の嫋々とした舞姿は能「井筒」を思い起こさせた。作者は世阿弥、ヒロインは在原業平の妻と言われた紀有常の息女。幼いころに云い交わした業平と19の歳に結ばれたが、相手は帝の許嫁を盗み出すほどの色好み。有常の息女は「待つ女」と世間から呼ばれて寂しい一生を終えたようだ。しかし、二人がかつて暮らした館の跡に亡霊となって顕れた有常の娘は、帰ってこない業平を待ち続けた生涯を恨むでもなく、恋の日を懐かしみ、
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ、わが身ひとつは 元の身にして
と業平の残した、過ぎた年月、変わってしまった景色、去ってしまった人を恋うる歌を口ずさむ。クライマックスは彼女が業平の形見の直衣を纏い、愛しい男になり替わって舞う序の舞である。能はそもそも男性であるシテ方が女性を演じていて、その女性が男装して業平に変身するという複雑な演出と倒錯性が見せどころとなっている。至高の恋を主題とし、世阿弥が畢生の傑作と自負したとされる「井筒」は、嫉妬も怨みも、おそらくは性別も超越した揺るぎない狂恋の風景を幻のように描き出してみせた。美と富と権力をこよなく愛し、北山文化を開花させた将軍足利義満を、その美貌と才智で虜にしたと言われる世阿弥。「井筒」は晩年の作品とされているが、世阿弥が若き日に演じたとしても素晴らしく風情があったことだろう。
フィギュアスケートというフィールドにおいて、羽生はある意味「上手すぎる」域にまで達して、彼自身もそれを自覚し、新しい地平を求めているのではないだろうか。それは躓く様に速いリズムでスケートの技を引き立てるにはむかないように見える「レゾン」をまったく斬新で誰もでまねできない作品に仕上げて見せたことでからもうかがえる。
羽生結弦はメダルや記録だけでは満足できず、これまでにない驚き、発見、感動を創りだしたいという欲求に突き動かされているようだ。しかし、あのようにジャンプ、スピン、スケーティング、ダンス、体のライン、衣装、立ち居振る舞い、すべてにおいて完璧を追及しほぼ成功してしまったら、その先に何を求めるのか。そのひとつのトライアルが2022年6月26日の「ノートルダム・ド・パリ」にあったのかもしれない。どこまでがジャンプでどこからがステップなのかおよそ見分けがつかないほど複雑な「レゾン」の直後、消耗しきった己を追い込むように挑戦を重ねることで、技術や作為的な表現を超えた「何か」を呼び込もうとしたのではないか。
「ノートルダム・ド・パリ2022」には名工の手になる陶器が窯の中で炎に焼かれ、予測できない窯変や自然釉によってえも言われない景色を生じたような、意思や制御を超越した何かがあった。羽生自身はあの日、何をつかみ取ったのだろうか。
※[序の舞] 能の舞事のひとつ。三番目ものシテである優美な女性や精霊がゆっくりとしたテンポで典雅に舞う。