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「推し」? と結婚してしまった話

 夫の光太郎は能楽のシテ方、いわゆる能役者だった。
 6歳で入門し、伯父様は人間国宝で本人も並み以上の評価は得ていたけれど、歌舞伎などと比べてはるかにマイナーだし、昭和末期の当時でも一般家庭から見ればほぼ「秘境」の住人に見えたかもしれない。私が彼と交際を始めた時には私の父を筆頭に家族、親戚、友人、もれなく全員に反対された。お陰様で余計に盛り上がってしまい、「お付き合い」はいつの間にか「結婚前提」になっていた。あれよあれよという間のことで実際プロポーズされた記憶も承諾した覚えもなくて、
「早く身を固めろ」
 と周りから責められていた彼にはめられた気がしなくもない。反対したのは私の周りだけで、彼の周囲は何年も前から
「相手なんか何でもいいからとにかく結婚しろ!」
 という感じだったようだ。そもそもあんなに反対されなければ
 「3日一緒に居られたら命もいらない」
 というほど思いがつのることもなく、結婚にも至らなかった。今となっては反対しまくってくださった身内に感謝しかない。

反対の理由は

・生まれ育った環境が違い過ぎる     (だから面白いのに!)
・歳が違い過ぎる  (私は大学に入ったばかり。彼は15歳ほど年上だが見た感じは若かったし戸籍上は×なし新品だった)
・浪費家っぽい (大当たり! クレジットカードも銀行口座も持たない人で、結婚当時本人名義の金融資産0。でもそれは学生だった私もほとんど同じ)
・人当たりが良すぎ、話が面白すぎて怪しい  (………!?)
等々

 「必ず説得するから、それまでいい子にして学校に通って、絶対に家出とかしないように」
 と彼が云うので任せて置いたら、3年かけて父を丸め込み、大学4年の12月に家元の仲人で無事挙式となった。結婚前の夏に私が彼の主催する会で仕舞を舞った時、写真が趣味だった父は一番いいカメラを持ち込んで嬉しそうに写真を撮っていた。ちょろいものである。
 だいたい私の仕舞など、見る程のものではない。鑑賞するだけのつもりで能楽のサークルに入り、言葉も決まり事も難しすぎてわからないから少しでも理解するために謡や仕舞を習うのが早道だと思ったのがきっかけ。おかげで彼と出会ってしまったわけだが、芸事の才能が全く無いのは自覚している。そんなへたくそ以下の私を会に出したのは周囲からの「さっさと結婚しろ」圧力に対する「鋭意努力中、まもなくミッション完了!」という光太郎のデモンストレーションだった。
 会の前、彼は
「足袋を見立ててあげるから」
 と定期公演に私を呼び出した。かねてから私の足袋がぴったりしていないのが気に入らなかったらしい。光太郎が舞台の支度をする際に一番こだわっていたのが足袋選びだった。同サイズで同時に誂えても足袋には生地の癖など微妙な違いが出てくる。光太郎は舞台の前、何足もの足袋をはき比べてその日の足の状態に合うものを選んでいた。吸い付くような白足袋に包まれた足のきれいだったことは今も目に焼き付いている。

 約束の日、舞台の合間に能楽堂のロビーに出てきた彼について、奥の「伊勢屋」へ。古くから能楽師の足袋を扱う店だ。店員さんがソファの前に足を乗せるための漆塗りの台を置き、試着用を何足か用意して待っていた。
彼は私をソファに掛けさせ、
「僕がするから」
 と店員さんの手から足袋を取り上げ、袴の膝をついたかと思うと、もたもたとこはぜを外そうとしていた私の右足の足袋を一瞬で脱がせてしまった。新しい足袋をきっちりと折り返して親指からフィッティングしていく。以前にも呉服屋さんの展示会で職人さんに合わせてもらったことはあったけれど、それよりさらに手際が良い。ロビーを行きかう人たちのチラチラこちらを見る視線が刺さって、私は赤くなったり青くなったりしていたと思う。
「きつくない?」
 とか聞かれたかもしれないが、ろくに返事もできなかったような気がする。私の動揺には全くお構いなく、光太郎は少しずつ型と寸法の違う足袋を次々私の足にはかせて皴の出方、添い具合を確認し、
「これだね」
 と勝手に決めてしまった。ネル裏の白いキャラコ足袋に包まれた足はまるで別人のように形よく見えた。
決めた足袋を店員さんに渡し、もとの足袋をはかせてもらった頃には遠巻きのギャラリーができている。彼はよそ行きの笑顔で
「あとでね」
 とささやいて、周りの誰彼に挨拶しながらさらさらと袴をさばいて楽屋に戻って行った。

 光太郎はよく気が回る人で、能楽堂の喫茶室で忙しい店員さんに代わってどこかのご隠居様にコーヒーを運んでお砂糖とクリームを入れるところまで面倒見たり、大きなベンツを自ら運転してきて駐車場で苦労している某女優さんに代わって車庫入れしてあげたりととにかくマメだった。すぐに動ける反射神経の良さもあったが、人とコミュニケーションをとるのが大好きで目立つことに躊躇がない。
 元気だったころは一カ月に1日も休みがないほど忙しかったが、たまに帰れる日に記念日などがぶつかると大はしゃぎしてくれた。都内の稽古場で素人のお弟子さんたちに謡や仕舞を指導し、お茶した後に
「今日は妻の誕生日だから!」
 と皆様を巻き込んでお店を廻ってプレゼントを選ぶのだ。付き合ってくださるお弟子さんたちは教養も人柄も整った方ばかり。義父の代からひいきにしてくださる方もあって、光太郎にとっては子どものころからのサポーターであり甘えさせてくださるファミリーのような感覚だったかもしれない。その方たちによき夫ぶりをアピールして
「光太郎先生はお優しいこと!」
 とほめてもらうのが嬉しくてたまらないのだ。私の誕生日などはもはや小道具に過ぎない。だからギャラリーが多い日の方がプレゼントが格段に豪華になる。
 そうは言っても気持ちがないわけではないし、ギャラリーが居ない日でもそれなりに花束を抱え、駅員さんやマンションの管理人さんやエレベーターで会うご近所の奥様方にもれなく
「今日は家内の誕生日なんです!」
 とスパダリぶりを見せびらかしながら帰ってくる。
 「役者じゃのう」
 と心の中で突っ込みを入れながら、無邪気さとけれん味がてんこ盛りな彼の振る舞いを見ているのは本当に楽しかった。

 光太郎のアピール力と運動神経の良さを見せつけられた忘れられない出来事がある。
 食い意地のはった我が家の長男は幼児の頃、一気に詰め込んで突然吐いたりすることがよくあった。その日も家族で食事に出かけたレストランで例によって早食いしていた長男の動きが一瞬止まった。「あっ」と思った次の瞬間、光太郎はすっと腕を伸ばし、長男の吐しゃ物を両掌ですべて受け止めて素早く始末してしまった。周りのテーブルの誰も気づかなかったと思う。
 今は二児の母となっている4歳年上の長女は正面からそれを見ていて
「あの時、親ってすごいなと思った」
 という。
 子どもたちの小さいころ光太郎は留守がちで、育児は私がほとんどワンオペてこなした。光太郎は子どもたちをお風呂に入れたこともなければ大の方のおむつを取り替えたことだって一度もない。土日が忙しい商売だから運動会も父親参観日も行くのは私ひとり。それなのにたった一回のクリティカル・ヒットで総合評価第一位をさらうとはズル過ぎる。アピール力、ショーマンシップを生まれ持った人とはとても勝負にならない。

 光太郎が亡くなって12年が過ぎたが、今も命日が近づくと美しい盛り花を贈ってくださる方がある。光太郎の命日は私の誕生日と2日しか違わない。しかも、仏花とはいえたいそう華やかにつくられているので、届くたびに毎年性懲りもなく
「誕生日プレゼントかしら?」
 と勘違いさせていただいている。
 
 我が最強の「推し」の余韻はまだ当分消えそうにない。

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