能登半島地震被災地滞在ルポ(2024年9月12-13日)
福島から片道600キロ超、10時間におよぶ旅の末にたどり着いたのは能登半島先端のまち珠洲市。被災した住民たちのコミュニティの場になっている元保育園で秋祭りは行われた。
ちょうどこの日、祭礼が行われる予定と聞いたが、住んでいる家はまばらで人通りも少ない。家は「ぺしゃんこ」、道路は「ガタガタ」(※住民の言葉)、地震の発生から8ヶ月以上たったいまも水が出ない家がある。人が住むには機能が壊れたままの町で、いったいどれだけの人が集まるのか――。開催前の不安をよそに、会場には朝早くから人が来始め、支援物資の配布スタート時にはあっという間に長蛇の列が。お昼になると屋内も外も、用意したテーブルはほとんど埋まり、準備した1200食はあっという間に完食となった。
お昼をすぎたころ、会場に生後2ヶ月の赤ちゃんがやってきた。女性たちに代わる代わる抱かれながら、腕のなかでスヤスヤ眠っている。
母親の若い女性とその祖母に話を聞くと、近くにある40世帯ぐらいの町内は地震後、まさに“ゴーストタウン”になった。「だあれもおらん。気づいたらお寺さんとウチだけになっていたんよ」。高齢者世帯が多かったため、子どもや親族を頼って他市、他県に引っ越してしまうケースが相次いでいるという。
妊娠中だった女性は珠洲市から少し離れた産院に通っていたが、地震後は受け入れが難しくなり、保育士の仕事を辞めて車で4時間ほどの白山市へ転居。祖母は安全な仮設住宅に移った。そして女性の両親のみが「防犯のため」、施錠できず、水も出ない自宅に残り、いまも毎日、祖母のいる仮設住宅と行き来しながら暮らしているという。祖母は「町も家族もみんなバラバラじゃ」とあきらめたように首を振った。
若い世代が「みなし仮設」の制度を使って他地区のアパートで避難生活を送り、地元に残ったのは高齢者のみ。世代間で分断が起こり、被災した地域がコミュニティ存続の危機に陥った状況は、東日本大震災後のいわきも同じだった。津波被災した沿岸の町は住民が「戻るか、戻らないか」で揺れた。生活拠点をどこにおくかは子育て世帯にとってシビアな問題で、子どもが新しい地域に馴染んだら、親は地元に戻るのを躊躇する。そうこうしているうちに子どもは育ってしまうから、決断は待ったなし。決して「郷土愛」だけで乗り越えられるものではないのだ。
私が取材に通った豊間では震災前およそ640世帯あった住宅が被災して3分の1以下の200世帯になった。当初は被災したうち8割は戻るだろうという算段だったが、時間の経過と共に5割、3割…と尻つぼみになっていった。そのため若い世代の新規転入を促す方向に舵を切り、区は充実した子育て支援をアピールしつつ、新しいふるさとづくりに取り組んだ。すると震災10年目の年に世帯数がかつての8割にあたる500世帯まで回復し、昨年10月ごろついに、震災前の世帯数に達した。地域に子どもたちの声も戻り、豊間小の児童数は少子化の時代にあって珍しく増加傾向がみられている。ちなみに豊間は隣の薄磯区とともに石川県小松市を拠点にするボランティア団体「チームこのへん」の支援を受けており、能登半島地震のあとは恩返しの義援金を贈ったそうだ。震災をきっかけに生まれた交流がいまも続いている。
数字上の復興だけでも10年以上を費やした。失われたものも大きく、あきらめと仕切り直しを繰り返す日々だったと思う。能登半島ではようやく地震の影響が落ち着いたと思われた矢先に今回の豪雨災害に見舞われた。秋祭りからちょうど1週間後の出来事で、私たちが訪れた珠洲市にも大きな被害が出ている。先の見えない苦しい時間が続く能登の人々に対して、これから何ができるか。かつての被災地から希望の光を届けられるよう、できることを考え少しでも実践していきたいと思う。一人ひとりの力は微力でも、決して無力ではないはずだから。
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