何をやらせても卒なくこなしてしまう長男と、何ひとつまともにやれない次男、精神的に不安定な妹 ー TOKYO VICE v.s. Giri / Haji
サブスクリプション式の動画ストリーミングサービス上では、日本のコンテンツと言えば漫画原作かアニメか、日本本土ではやや古臭く感じるヤクザものが定番だ。
そのヤクザものの鳴り物入りの新作がHBO maxでストリーミングが開始された。しかし内容は日本に留学し讀売新聞社初の外国人記者として活躍した米国人による同名のメモワールが原作で、「外から見た日本」には変わりない。
主演にアンセル・エルゴート、共演にこうした「外から見た日本」コンテンツで「外から来た」プロダクション作品への錚々たる常連者を加えた豪華キャストに、名前こそ変えているものの90年代から2000年代初頭に数々のアウトロー誌を飾った実在の暴力団組織の抗争とそれにまつわる警察と報道のありかたがテーマだ。
物語自体はアンセル・エルゴート演じる明朝新聞社会部新人記者のジェイクが彼をヨーダのように教え導く警視庁新宿署保安課刑事の片桐と出会い、日本社会のルールとしがらみにもまれながら、ヤクザの世界に徐々に深くのめり込んでいくビルドゥングス・ロマンを中心に、警察や当時の東京の夜の世界を生ききったヤクザの斉藤、ホステスのサマンサ、関西ヤクザと関東ヤクザの抗争を描く群像劇となる。
ダークな内容ながら本作自体は非常にアップビートで、早いテンポでの展開を特に注視した映像と演出が魅力で、評価も良く、早くもシーズン2の制作を待ち望む声も多い。
近年のヒーロー物は主人公のダークサイドや内面に焦点を当て、ストーリーの基底テーマとして取り上げる傾向が増えている。TOKYO VICEではジェイクのダークサイドは郷里ミズーリにいる普通のアメリカ人家庭である家族だ。そこには精神的な拠り所をジェイクに持つ妹がおり、上司には会社に秘密にしているルーツと精神疾患を持ち引きこもる兄がいる。サマンサは敬虔かつ高位のモルモン教徒の家庭に生まれ育ち、布教を目的に来日した過去がある。佐藤には彼がヤクザの構成員になったことで縁が切れてしまった堅気の家族がいる。そして佐藤には何をやらせてもだめだから男にしてくれとヤクザの構成員となるべく差し出された若者を指導する役割がある。
現在では当たり前に社会として受け取られているべき問題、精神疾患や自身のルーツ、引きこもり、機能不完全家族、社会格差、男女差別、カルト二世問題などが決して表で論議されることなく、家族という小さな単位の中へ中へと押し込められ、閉じ込められていたおよそ20年前の平成の日本の持つ問題が現代の物語の受け手へと提示されている。あの時はそうだった、でも今はどうだろう。ストーカー問題は顕在化し罰則化もされたが未だに被害は増え続けている。ひきこもりは8050問題としてそのまま内在化しながらただ時を経て、失われた何十年かは今も失われ続けている。
家族間の役割はどうだろうか。片桐の家庭の20年後は?何をさせてもだめで、ヤクザの構成員もまともに務められなかった若者の20年後は?精神疾患を持つ兄を抱え明朝新聞で激務を続ける彼女は?ジェイクの妹は?機能不全家族の中ではうまくできなかったが、虐待の中にあっても卓越した料理の腕と転生の感と若者の素直さで出世階段を登っていた佐藤はシーズン1でまさかのバナナフィッシュフィニッシュ(主人公が事情のわからないかなりどうでもいい下っ端に無駄に殺されてしまうという結末)を迎えてしまう。
いくらシーズンを重ねても、これらの問いには絶対に答えも癒やしも与えられることはなく、ただただエンターテイメントに忠実な物語がこのTOKYO VICEだ。
TOKYO VICEに遡ること2年前、ネットフリックスでストリーミングが開始され、米国では今でも視聴することの出来るのがBBC Twoの制作によるGiri / Haji だ。こちらはコロナ禍以前の東京とロンドンを舞台にし、警察官の兄とヤクザの構成員である弟とその家族、そして2都市をまたがって繰り広げられる2つの国のマフィア(暴力団と現地ギャング)の抗争を描く。
ここでは何をやってもだめで何とヤクザの自分の失敗を警察官の兄が本物のヤクザ
顔負けのスゴ技で難なく尻拭いしてしまうということまで描かれる。物語前半ではこのよくできた兄のよくできない弟は既に失われている。ここでは出てくる誰もがもう既に何かを失っている。家長としての役を果たそうとするも手一杯になってしまう長男。何もかも失いロンドン市内を幽霊のように移ろう弟。日本で、家族内で行き場を失った娘。恋人を失ったスコットランド・ヤードのユダヤ人女性と日英ハーフで恋人をオーバードーズで亡くしたばかりの男娼。日本では必死に嫁という立場を守ってきた主人公の妻、その妻をいびりぬいた末に夫を亡くした母親、父の敵となった恋人の子供を守ろうとする暴力団組長の娘の3人の女性が粘り強くしぶとく生き残りの戦いに出る。
ロンドンの登場人物は誰もが壊れやすく、もうあと一回何かがあれば粉々に割れてしまう空の器のように、自分を満たすものを求め、壊れてしまった結び目を結び直すために奔走する。ここでのナラティブはあくまで個人的で、各人物の傷つく姿がありのままに映し出される。各自が自分の心の落ち着きどころへ辿り着こうとするころ、物語にあるカタルシスが生まれる。日本でも家でも行く場のなかった主人公の娘が、やっと居場所を見つけたかと思われたロンドンからも拒否され、世界を拒否しようとする。その時、各自の事情や思いはどうあれ、主要人物たちは純粋な愛に初めて動かされて行動する。そして視聴者たちは自分たちが全く思いもしなかった世界へと導かれる。世界が描いたトーキョーやニホンジンやガイジンを超えて、登場人物たちはメタファーへと変容を遂げる。
日本でも、世界でも家族の中で自分に与えられた役割や行動規範に囚われて、自分自身であることを許されない人は多い。何でも出来る長男の下す決断は家族思いかもしれないが、それは家族にも痛みを伴うものなのに、本人はそれを呵責しない。気ままな次男は家族を振り回すが、本人はその決断の根拠は自身にのみあると信じている。精神的に不安定な娘はただ自分であろうとすることだけで周りが傷ついてしまうことに傷つく。
これは現代の物語だ。今はただ、自分が自分自身で在ること、その上で無条件に愛されること。ただそれだけがいかに難しく、そしてどれだけの人やその人達が構成する社会を癒やすことだろうか。
失われたもの、失われつつあるもの、そしてこれからも簡単には得られないであろう物事。
それらを丁寧に扱い、描き、物語ることこそがこれからの表現に欠かせないトーンのひとつであると再定義とする潮流が、作品の中にも外にも今、顕れ始めている。そこを汲み取り、環境をひとつひとつ整えていくこと。優しさからほど遠いものを強く拒否する力。私たち受け手にもその役割は確かに与えられている。