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花を飾る男|週末セルフケア入門
最近、家にいる時間が長くなったので、花を飾る人が増えているそうです。自分にとって居心地のいい空間をつくるために、気に入った花を飾ることは、誰にでもできる良い方法だと思います。
私はたまたま、幼い頃から花によく親しんできました。両親は農学部卒で、父方の祖父はパンジーやチューリップの栽培をしていました。母方の祖父は花時計の本を出しています。実家の庭は文字通り花畑で、家の中には季節の花が飾られた花瓶がいくつもありました。
あとになってから、花を飾る男性が少ないことに気がつきました。歴史的にみれば、江戸時代には好事家による園芸ブームが起きましたし、古事記や万葉集の時代には、男性がファッションとして花を身につけることが風流でした。 縄文人も狩猟道具を植物で飾ったり、お墓に花をそなえたことが知られています。
そこで、今回は「花を買う習慣がない人が、まず最初にどうすればいいのか」を考えてみました。
一輪でいい
そもそも、何の花をどんな風に組み合わせて買えばいいのでしょうか。身も蓋もないことを言えば、仏花でなければなんでもいいと思います。
生花店に行くと、一束500〜1,000円ぐらいのアソートがあります。これでもいいのですが、おすすめは気に入った花を一輪だけ買うことです。一輪だと、安いもので100~200円、高級な花でも300〜500円くらいです。
立派な花束には大きな花瓶が必要ですし、世話も大変です。そんなに気合いの入ったことはしなくても、家にあるガラスのコップに一輪挿しするだけで十分綺麗です。
花を定期配送してくれるサブスクリプションサービスを使ったこともありますが、引っ越しを機に解約してから、そのまま使わなくなりました。探してみれば、家の近くや通勤路に、一軒くらいは生花店があるんですよね。やっぱり、自分で選ぶのがおもしろい。
花を長持ちさせるコツはいろいろあります。余計な葉は取り除き、水を吸いやすいように茎は斜めに切る。直射日光やエアコンの風が当たらない場所に置き、水はこまめに換える。
とはいえ、水を換えるのはけっこう面倒です。疲れていると全然できません。私も、気がつくと花が枯れていたりしますが、それでいいことにしています。枯れれば、また次の一輪を買いに行く楽しみができます。
季節の花
どこに飾るのか。部屋のあちこちに飾るほどの気合いはないので、台所に一輪挿しです。置く場所は玄関でも、食卓でも、トイレでもいいと思いますが、ある程度決めておいた方が続けられると思います。
先日、近所の生花店でヒマワリを一輪買いました。花弁は薄いレモンイエローで、子どもの掌くらいの大きさです。小ぶりで、押し付けがましくないのが気に入りました。
ヒマワリはアメリカ原産の花で、パキっと夏感が出ますね。夏の花といえば、バラやアジサイ、アサガオ、ユリなどが浮かびます。いずれも愛好家が多く、よく改良がなされ、品評会や写真撮影も活発な印象です。
花の名前を知れば、それを飾りたくなります。大きさも色々ですから、それに合った花瓶が欲しくなり、鉢植えに手を出し、ついには菜園や園芸によろこびを見出すようになっていく。
先達も多数。読み物でいえば、カレル・チャペックの『園芸家十二ヶ月』や、いとうせいこうさんの『ボタニカル・ライフ』『自己流園芸ベランダ派』は、素晴らしい手引きになってくれます。牧野富太郎氏の著作を読めば、原種の来歴や語源までくわしく知ることができます。
日本文学においても、恋と花は永遠のテーマで、そういえば「源氏物語」の登場人物にも花にかかわるものが多いですね。「光」源氏の方を向く、藤壺、葵の上、夕顔、末摘花......。
一週間ほど経つと、ヒマワリはしおれてきました。黄色くなってきた葉を取り、茎をより短く切って、背の低いコップに挿しなおしました。これで、もう少しはもちそうです。
花を見ていると、どうしても「顔」を連想するところがあります。切り花といえど、花の面倒をみることには、どこかコミュニケーションをしている感覚がともないます。しかし、人間相手とちがって、そこには張り詰めたものがありません。
世話することで世話される
なぜ、花を飾ると癒やされるのか。ひとつにはそれが小さなコミュニケーションだからであり、もうひとつは、私がその花の世話をしているからだと思います。一輪挿しのコップの水を換えることは、人間の世話よりもずっと小さい、最小限の世話と呼ぶことができます。
逆説的ですが、弱いものの世話をすることで、自分が世話されることがあります。つまり、ケアすることでケアされる。哲学者の鷲田清一さんは、これを「弱さの力」と呼びました。
「顔」を彷彿とさせるような花開く面を見やりつつ、水をやり、ときどき声をかけ、日々をともに過ごす。人間はこれを、どうも本当に昔からやり続けており、それは地域を問わないらしい。
言葉をみてみると、目を「やる」、水を「やる」と言っています。考えてみると、世話をすることは、究極的には自分の人生の時間を「やる」ことである。
人間は世話をする生き物です。私たちは生まれた時に自分で立つことすらできません。誰もが世話されて生きてきたと言えます。世話=ケアをすることは、私たちにとって自然なことでしょう。
経済学者の広井良典さんは『ケア学』の中で、人間はそもそも「ケアへの欲求」をもつと述べました。ケアすることで、その欲求が満たされると考えることができます。
人間とかかわること自体がしんどいこともあると思います。そんなとき、駅前にある生花店で、切り花を買ってみてはどうでしょうか。小さな世話をすると、花はそれを返してくれます。花の「弱さの力」を借りることで、自分をいたわる循環が生まれてくるかもしれません。
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