『雨を告げる漂流団地』('22/監:石田祐康)
Netflix『雨を告げる漂流団地』('22/監:石田祐康)を子と観始めた。冒頭から給水塔だった! 映画を再生しながら、全国各地の団地にある給水塔の写真集『団地の給水塔大図鑑』(シカク出版)──端的にいって異常な本である──著者の日本給水党党首UC氏に「給水塔が出てきますよ!」と連絡すると「先日映画館で観てきました」と返信がある。さすがだ。
やべえ、たまらん、背景美術だけで泣きそうだ。リアルなだけじゃなくて、きちんとフレーミングとアングルがある。
まだ冒頭15分なんだけれど、日本の風景・原風景としての「団地」(ブームもありました)の魅力、フェティシズムだけでなく、さまざまな階層・いろいろな家庭の事情が混じり合った交点として舞台を「団地」にして描こうとする意志を感じる。
私は2017年、下記にリンクを貼ったMVのディレクター兼カメラマンをするために大阪と兵庫の集合住宅やニュータウンと呼ばれる(呼ばれた)場所を12ヶ所くらいロケハンして、そのとき外側から「撮る」欲望は解消・昇華されたけど、「内側」までは踏み込めなかった。嫉妬を抱く。
学校帰りに「新しい家でスマブラやろーぜ」という会話だとか、「ガストのすき焼き丼の出前」を頼む家庭の次のカットでは、食卓ですき焼きをしてる家庭が描写されたり、サバイバル状況におかれた子供たちが食べるものがブタメンだったり……。
レオタックスっぽいレンジファインダーにズミクロンっぽいレンズをつけたカメラも出てくる。レンジファインダーのピント合わせの描写が細やかだ。
実況はここまで。このあとは画面に集中した。
──観終えた。
高度経済成長〜「一億総中流」と「中流」の崩壊〜分配の失政による階層化と少子高齢化〜戦後・昭和と平成、その末裔として令和に生きる小学六年生たちが取り壊し予定の古い集合住宅、通称「お化け団地」で異世界の海を漂流する。それはまるで方向を見失った我々の住む「島国」だ。廃墟となったショッピングモール、錆びついた遊園地の観覧車、そんな美しいノスタルジィから脱出する子供たちは荒れた海原に放り出される。飲み込まれるな、飲み込まれるな、古い世代の人々が残した錆と水垢だらけの泥水に。作品タイトルに「雨を告げる」とあるが、雨とは何か、誰に告げるのか。
「2016年」のショッピングモールのチラシをみて「6年前?」と言う場面があるし、団地の夏祭りのポスターにも2022年と描かれているので本作は明確に2022年の夏休みの話だ──ただしマスク姿でないし夏祭りも中止になっていないので本作中での「現実」も「異世界」ではある。元いた2022年・令和四年の世界も楽しいことばかりじゃないけれど、異世界から「戻ってみんなでスマブラやるんだ」。
作中に家族でフロリダのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへ行ったことを誇る子が出てくる。つまり、これはある意味で日本ANIME版『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』('17/米/監:ショーン・ベイカー)ではないのか。『雨を告げる漂流団地』傑作だった。素晴らしかった。夏休みアニメ映画の金字塔のひとつになるだろう。
(……とはいえラストのある部分は「別に出前でもええやんけ」と感じたことは付記しておきたい。)
とてもよかったので、Netflix観られる方や映画館に行ける方、特に小学生以下の子連れの方には、勧めたい。
「ジュブナイル」ってのとも少し違うんだよね。たとえば夏休みにテレビを観ていて放送されて「アニメだから」と観た子がいて、そこで世界の広さ──と自身の生きる世界の狭さ──の輪郭の端っこに触れたような気になる映画というか。私の場合は1982年にテレビをつけていたらたまたま放送されたアニメーション作品『ぽっぺん先生と帰らずの沼』がそれだった。
小学生の頃に観たアニメ『ぽっぺん先生と帰らずの沼』、四十をとうにこえた今でも俺の血の何%かに混じっている。初めて母に頼んで近所の文房具店兼オモチャ屋兼書店に原作本を注文してもらった作品でもある。何日かに一度はお店へ母に電話をしてもらい──そして数週間後に「版元品切れ」を初めて経験した。値段とはまた別の理由で手に入れたくても手に入らないものがあるのだと経験した。泣いて母を非難するほど悔しかったが、いまにして思うとそれはそれで代え難い出来事だった。