「何が映っているのか」「どんな音が聴こえているのか」

映画・特撮史の金字塔作品で数多くの伝説的なショットを手掛けたダグラス・トランブルが亡くなった。79歳。がん、脳腫瘍、脳卒中で闘病していたという。

『2001年宇宙の旅』『ブレードランナー』はSpecial Photographic effects Superviserで参加した彼がいなければまったく違うルックになっていたか、歴史が及ぼす風化によって現在の目での鑑賞では耐えらない作品になっていたかもしれない。

ダグラス・トランブルによる特撮とスティーヴン・スピルバーグによる演出が融合した『未知との遭遇』の「icecream!」シークエンスの素晴らしさについて少し書く。このシークエンスは以下の流れでカットが積まれている。


口笛と虫の声がする

口笛に呼ばれたかのようにやってきた幼児が見通しの悪い車道の真ん中に立つ

ピックアップトラックが走ってくる
運転手は「Watch Out!」と叫ぶ
(ここで口笛は消える)
(短いサスペンス調の劇伴)

母親が幼児に走り寄り間一髪で路肩に転がりこむ

幼児を避けて反対側の路肩に突っ込んだピックアップトラックの運転手が車から飛び出してきて母子に駆け寄り、「Oh my god, Lady, lady. Are you okay? I'm sorry. I didn't see him. He was in the middle of Road.」と言う

幼児が「Hello?」と道路に歩いてゆきそれを母親が「Oh my god. What's the matter with You?」「Barry(幼児の名前), come back here. come on, now」と追いかける

短い劇伴が薄く鳴り始める後ろで虫の声が消え、風の吹く音がし、先ほどまで鳴っていたスキール音にも似た謎の音が止んでいる。

奇妙な静寂が訪れる。その直後、遠くから何かが風を切るような低い音が聞こえる。

ピックアップトラックと同じ道を小型UFOが飛んでくる。低い音の正体はその飛行音だった。車道の真ん中でしゃがみ込んだ母子の頭上を越えて飛び去ってゆく。

UFOを見た幼児が 「icecream!」と叫ぶ

UFOと同じ道をパトカーがサイレンを鳴らして走ってくる。カーブを曲がるタイヤがスキール音を鳴らす

また鳴り始める口笛

──ビジュアルとしては道を照らしてやってくる物体がピックアップトラック、UFO、パトカーと三度も畳み掛けてくる、サウンド的にはその三度の前と間と後で繊細かつ大胆に細かい効果音の出し入れや静寂の使い方がされたシークエンスだ。

しかし何度か見返すと、ここに、ほんの少しの、天才的な嘘が入っていることに気がつく。パトカーのサイレン音は本当ならばもう少し前から、遠くから聴こえていないとおかしいのだ。カメラが置かれ登場人物たちのいるカーブの手前からサイレンを鳴らし始めたというわけでもないだろう。よくよく耳を凝らして聴くとパトカーが画面に映る2カット前から極々小さな音量で聞こえ始めている。

音に注意するとギリギリ不自然さを抱かない完璧な少しの間をとったタイミングでサイレン音が急に大きく鳴り響くのがよくわかる。この短い2分間ほどのシークエンスにどれほどの音が明確な演出意図として配置されていることか。ダグラス・トランブルの伝説的な特撮にふさわしいサウンドデザインだ。画に音が負けていたらこれほどの名場面にはならなかったことだろう。Supervising Sound Editerとして参加したフランク・ワーナーは本作のSound Effects Editingで1978年にアカデミー賞・Special Achievement Academy Awardを受賞している(同時受賞は『スター・ウォーズ』におけるcreation of the alien, creature and robot voicesでベン・バート)。

余談だが、『未知との遭遇』をラストまでご覧になったことのある方は上記に書き出したこの場面のセリフがあまりにも本編全編とリンクしていることに驚くはずだ。主人公は──我々だって──マザーシップを見て「icecream!」と似た言葉を心のどこかで叫んだのかもしれない(「シャンデリア!」でもいい)。彼方へと向かう主人公の家族は「come back here. come on, now」と感じたのかもしれない──後年スピルバーグは「家族を残して宇宙に行くとかいまの僕には信じられない、このときはどうしてこんなラストにしたのかわからない」といった意味の発言をしている。

この音の「嘘」(演出)は近年でも傑作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(MMFR)冒頭からあった。立小便をしている主人公マックスが車に乗り込み走り去ったあと、それを追ってきてジャンプで画面上からフレームインする車両の爆音が「フレームインするまで聴こえない」。現実ではありえない。本当であればほとんど直管マフラーだろう数台の四輪や二輪の車輌の爆音は100メートル離れたって聞こえるだろう。MMFRは、このようなサウンドデザインの妙、コントロールが全編に繰り広げられる音のオペラ、演出意図の怪物みたいな映画だ。

ブルース・リー『燃えよドラゴン』での"Don't think, Feel"から引用した「考えるな、感じろ」は、「難しいことを考えないで感覚で判断しろ」という意味に使われることが多い。MMFRの感想でも似たような反応を目にした。それは間違っている。なぜなら件のセリフはこう続くからだ。

"It is like a finger pointing away to the moon"(それは月を指差すようなものだ)

"Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory"(月を指したその指先に囚われてはいけない、そうでなければ天の栄光すべてを失うぞ)

これはすなわち「全体を観ろ」という意味だ。

映画を観るとき、私の場合はまず「何が映っているのか(カメラがどこに置かれているのか)」「どんな音が聴こえているのか(鳴らされているのか)」が先にある。物語への関心はそのあとだ。

映画の「物語」「筋」を知るのと/「何が映っているのか」「どんな音が聴こえているのか」を見て聴くのは少し違うということ。または画と音とで編まれたハーモニー全体が「観る」だ。近年だと『スリー・ビルボード』と『ヘレディタリー/継承』の画と音を「観る」のがわかりやすいと思う──ただし怖い映画が苦手なひとは後者は絶対に観てはいけない。

『ヘレディタリー/継承』を観ているときの不安・不穏・居心地の悪さの大部分は、綿密に計算された効果音や劇伴の「ズラしかた」に要因がある。音に関しては、ものすごく変なことやってるのだ、あの映画。音が普通はつけないとこについてたり、普通は消えないときに消えたりもする。

映画の音に関しては、自分はL.A.の20世紀フォックス映画(当時)にあったフルオーケストラのサウンドステージ(スコアリングステージ)やフォーリー収録スタジオでの実演、同じくL.A大手ポスプロTodd-AOの映画館ほどもあるMAスタジオに取材した際に徹底的に見聞きして、そこでサウンドデザインに関して目から鱗が落ちた。

だから映画作品を観て気がついたというよりも、まずテクニカルな部分、Behind the scenesを見聞してから、映画の捉え方が変化した面が大きい。画はメイキングやインタビューをさんざん撮ったから少なくとも三脚の置き方と録画ボタンの押し方はわかる。スマフォで動画を撮って多少の編集をしたことがあるならばある程度のことはわかる。でも音を捉えるのは予備知識がないとなかなか難しい。

以下に、「カメラがどこに置かれて何が映っているか(撮られているのか)」「その場面でどんな音が聴こえているのか(鳴らされているのか)」 が重要な作品に関して、2018年2月に映画館を出たあとガーッと書いたメモを残しておく。


(以下、2018年2月7日 記)
『スリー・ビルボード』や、ヤバかった……。1本の中にこれだけ名シーン、名ショットが多い映画はここ数年では記憶にないかも……。116分の作品だけど45分過ぎからずっと息を止めて観ていた気がする。本当にすごいな。主題や物語への評価とはまた別に、「撮り方」がヤバい……。

正直いうと予告を見た際には「なんだか奇妙な映画だな」と感じていた。そりゃそうだ。この作品の凄さ、物語のあらすじを説明してもぜんぜん伝わらないのだ。場面の撮り方、目線と唾を飲み込む喉とダイアローグの饒舌さと寡黙さといった演技の間、音の演出の繊細さ、つまり実際に観ないと凄さがわからない。

もう開始1分から凄い。朝靄に立つ3枚の古ぼけた広告看板。タイトル。通りがかった車。女が乗っている。看板の前で車を停める。「車のエンジン音が、まるで看板を見つめる彼女の心境のようにザワザワとしている」。もうここから凄い。あとは全編ラストまでこのテンション。

開始8分。夜の看板前で看板屋が広告を貼っている。パトカーが停車し「何をしてるんだ」と問う。会話の合間には「夜の静寂」。開始1分での「ザワザワしたエンジンのアイドリング音」との対比。映画の音の録り方や音のつけかたを知らない方には意外かもしれないけれど、さきほど書いた「看板を見つめる彼女の心境のようにザワザワとしている」車のアイドリング音も、撮影現場で鳴っている音そのままではない(はず)。むしろエンジンすらかけていないかもしれない。

近年の映画はダイアローグをきちんと録音するために、なるべく余計な音は現場では鳴らさないし、もし録っていても使わない。部屋のドアを閉める音から歩いている足音や衣服が擦れる衣摺れ(これはフォーリーと呼ぶ)に至るまで、ある程度の予算がある作品は効果音をあとでつけることが多い。虫の鳴き声や車のアイドリング音のような効果音:サウンドエフェクトや、夜の闇の静寂といった環境音:アンビエントノイズは音色や音量や定位をしっかりとコントロールして、そこに演出意図を込められる。

『スリー・ビルボード』は確かにプロットもダイアローグも素晴らしいが、「脚本がいい」で終わらせたくないのはそこのところだ。お話の筋があって台詞があって演者の表情や声があってカメラに意味があって音に意図がある。それらが物語となって襲いかかってくる。起こった出来事とそれを捉えるカメラの意図は同じ意味を指すとは限らず、語られる言葉と声色や表情が同じ方を向くとは限らず、笑える場面で怒っているし泣いていても別のことを考えているかもしれない。だが、それでいて「画面に映っていることがすべて。見たまんま」。ね?『スリー・ビルボード』ヤバいでしょう?(そういう意味ではめちゃくちゃ教科書的なシネフィル向け映画とも言えなくもなくて、誰しも思うだろうけれど、イーストウッド+北野武で、もしかしたら彼らが皮膚感覚や経験則で演出しているかもしれない部分を、緻密な計算で創り上げている……とも)

登場人物たちが、監督の代弁者でなく、物語を駆動させるためのコマでなく、本当にみんな生き方も考え方もバラっバラで生々しく強烈だ。「みんな二面性がある」なんて言葉じゃ追っつかないくらいに、矛盾と頑なさと強い意思と弱い感情とが混ぜっこぜな人々。登場人物たちの内面が透けてみえる、どんな人か想像が拡がる、というよりはスクリーンにその生々しさがぜんぶ映っている(シネフィルっぽい表現をするならば、映画の登場人物は単にスクリーンに映る光と影でしかなくて、よって映画の登場人物に内面などない)。『スリー・ビルボード』は、小説でいうところのト書きがスクリーンに映っている映画だ。

実は物語の重要な筋にからむ登場人物の中でたったひとりだけ観客からも登場人物からも「一面的に見える人物」がいるんだけれど、その人に対して登場人物がどういうアクションを取ろうとするのか……はネタばらししたくないので触れない。ただそのことはとても重要なポイントだ。


『スリー・ビルボード』は圧倒されるほどの傑作だし、ミスディレクションがバッチリ決まった(特に2回登場する、銃を手にする場面)演出も素晴らしいし、物語を正面きって受け止めることも可能だけれど、ちょっと変な、ストレンジな、フリーキーな、特殊な映画とも言える。風格があるし観終えた直後は思わず「フーーーーッ……」と深く息を吐き出してしまうけれど、正攻法ではなく奇策に満ちている。スリッパだとか、ひっくり返ってもやたらと早く片付けられるテーブルだとか、1枚目から2枚目の看板に走って行く引きのFixや舞台劇みたいな燃える窓の外といった「作品中でたった1度しか使わない演出」だとか……いくつかの「母子家庭」、反復される「ポーチのブランコ」といった立場の違いや共有や変化のわかりやすい対比以外にも、広告屋の「法律を何で調べた?」「えーっと、本で」と警官の「退職金について調べてみるわ、ネットで」の会話の対比のような、ギャグともなんとも判別がつかないボーダーライン上で演出する場面が山のようにある。

あまりにもそのままな『スタンド・バイ・ミー』の引用も謎めいている(それが象徴するところである旧約聖書〈涸れた谷に鹿が水を求めるように神よわたしの魂はあなたを求める〉のもたぶん同じ)。感動的な場面だけれど、その場面には映画的記憶がダブる。それでいて引用だけにとどまらず、その場面は、ある人物が飼っている馬との対比になっている。

全編にわたっての執拗な反復や対比、引用(看板、顔に飛ぶ血、広告屋の名前、供えられた花……といった「赤」のイメージには、テレビから音だけ聞こえるニコラス・ローグ『赤い影』が加えられる)、唐突に挿入されるトーン違いの演出(夜の警察署)、排除される段取り(新署長赴任→おまえはクビのくだりの不自然さよ)、舞台の外側が描写されないことによる設定年代の不明瞭さ(ネットの反応も描かれないし携帯電話は急に登場する)──あれだけ輪郭は明瞭な作品なのに、細部は考えれば考えるほどストレンジで観念的だ。

劇中では結構な曲数でポピュラー音楽がかかってたように思えるが、私にはABBAしかわからなくて、そこも「Outside Ebbing, Missouri(原題)」という感じは抱いた。ABBAという選曲はかかる場面でそれを聴いている登場人物のパーソナリティに深く関わっているはずだけれど、そこは明確には描かれない。その人物が、とある対象を公然と嫌悪するのは、一方で自身の周囲に知らせたくない別のパーソナリティを隠すためで、その隠さない「嫌悪」は鎧の一種。鎧で隠されたパーソナリティーは明確には描かれないが、その人物が肉親とする会話「いるのかい?」「いないよ」で、しっかりとスクリーンに映し出されている。

終盤の「オレンジジュース」の場面。感動的なアクションだけれど、自分は別のことを考えていて(直前の、目だけで嗚咽する演技に心奪われたのもある)、それは「パンツさっと下ろしてコップにチョロチョロと小便をしても観客には見えないカメラアングルだな」──カメラがどこに置かれているのかは重要なのだ──ということ。そんな風に捉えてしまったのは、自分はこの映画を「人と人がわかりあう映画」とは思っていないから、というのもある。

本作を称して「社会派メッセージ」「深い感動」「人間の尊厳」──とする形容には、自分には少し違和感があった。むしろ「人と人の愛憎も情念も関係性もブラウン運動のように不規則で曖昧なもの」だと描いた作品のように思う。間違いなく傑作だが奇ッ怪な映画だとも感じた。画と音の意図や観念が、筋・物語を飛び越えている。すべてが映っていて鳴っているけれど、見ようとして聴こうとしないと、わからないのだ。

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