『インサイド・ヘッド2』感想
子を連れて『インサイド・ヘッド2』を観てきた。よく出来た娯楽作ではあると思う。画も構成も素晴らしい。素晴らしいが、物語の主軸となる〈思春期〉を迎え混乱してゆく当事者へのエールとなるかというとそうでもないようには感じた。どちらかというと、思春期の児童がいる保護者へ安心を提供する作品のように思えた。
実のところ、前作『インサイド・ヘッド』も、めちゃくちゃに面白いし、よくできているけれど、児童向けとはいえこんなにひとの心を単純化してしまっていいのだろうかと感じたこともあった。
リーダーシップを発揮しポジティブに前へ進もう皆で力を合わせようと自己啓発かのようなことを繰り返し言い続けるキャラクター〈ヨロコビ〉。「2」では序盤からこのキャラクターへどこか嫌悪感を抱かせる演出が散見されるな……と、感じていたら、中盤で、打つ手無しの状況にヨロコビが自我崩壊し狼狽え怒りを撒き散らし不平不満文句を捲し立てる場面が心に残った。あれは思春期の不安定さに寄り添ってきたつもりだったが、積もりに積もった不満が爆発する保護者の姿そのものだろう。
それにしても、我が子に「陽キャラ」「コミュ強」であってほしいという保護者のオブセッションは、アメリカではここまで強いものか、ということは感じた。日本でも、たとえば子が「のび太」であるより「ジャイアン」であったほうがマシだと考えている保護者は意外に多い。男児がクラスの女児に「モテ」ることを喜ぶ保護者、女児がクラスの同級生からその髪型や服装を「一目置かれている」ことを喜ぶ保護者。
ひとつの生き方の姿勢や矜持があったとして──
──世界で社会で人間関係で「孤独を恐れるな、同調するな、むしろ孤立しろ」というのはまったく正しい。だが、それはあくまで大人の論理、自己を確立した者にとっての道だ。
経験上、児童にとって「周囲から浮かない、同じである」という欲求は放っておくと、とても強く発揮される。学校で「靴下がピンク、ピンクは女の色だろ」だということを同級生から指摘された男児は「もう履きたくない」と投げ捨てる。「そんなもん言わせとけばええんや、言う方が間違ってる、みんなひとりひとりバラバラなんやから、好きな色が違っててもいい」と正論を保護者が伝えるとき、伝えかたひとつで、結果がガラリと変わる。恐ろしいほどに。
エンドクレジットのラストに、'all our children, just the way you are'(うろ覚え)と一文が挿入されているが、本作主人公と同じ十三歳の子が観たあとには、かえって混乱するのではないか、「学校では人気者にならなきゃ、友だちは大切だ」とプレッシャーが生じるのではないか、と〈シンパイ〉になった。七十年代のミーイズムへの反動の反動の反動くらいのこんがらがった末に達したシンプルさへの複雑な想い。
小ネタではあるが、主人公ライリーが三日間のアイスホッケー合宿へ行く車内で、父が「きみが楽しんでいるあいだ、父さんと母さんも好きなことしてるよ」と妻に性的なニュアンスを誘いかける場面は、そういう面でも「保護者向け」だなと。そして「この場面のニュアンスは十三歳の子が観たら、わかっちゃうだろな」などと。
ライリーの心の奥にある閉じ込めた記憶の部屋にいる、まだ小さかった頃に好きだったアニメキャラクター・ブルーフィーのセルルックと、プレイしていた対戦ゲーム・キャラクターで密かに恋していた(でいいのかな)影のある気取ったセリフを吐く騎士ランス・スラッシュブレードのルックには笑わせてもらった(特に部屋から出るときのモーション)。
序盤で〈ヨロコビ〉が、ライリーの「先生に怒られた」「スポーツでうまくいかなかった」といった嫌な記憶を自己確立には必要ないと断じてスポーン!と遠くに放り捨てる行動をカメラがフォローパンすると飛ばされた彼方の景色が不穏だったり、ライリーが依るアイデンティティが「わたしはいいひと」という危ういもので、それが自己暗示かのように何度も出てきたり、最終盤でライリーの高校生活を大きく左右する試験の結果を見せずにストンと幕が降りるなど、そういったところは皮肉ではなく本当によくできている。
よくできた娯楽作品だが、現実世界でライリーほど上手くやれない多くの児童、その児童に寄り添うがうまくゆかず七転八倒を繰り返し様々な工夫が何度も水泡に帰し途方にくれる保護者には痛みを伴う作品でもあったように思う。