キャラクターや物語世界を終わらせぬままに、それをやり遂げた傑作──『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』
【2021/08/21】
「明日は映画を観に行きたい」と昨夜に子が言った。Webで映画館の席をチェックしたら土曜なだけあって梅田は混みあってたので、自転車の後ろに子を乗せ片道1時間弱を走り、空いてる館の空いてる回の周囲にひとがいない席をとって観た。映画1本観るだけでヘトヘトになる。
『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』。評判は耳にしていたが、ほんまモンの傑作だった。物語の大半が小中一貫校の学園内とシチュエーションが限られているので、冒険系のジェットコースター的なクレしん映画が好みな子には無条件で勧められるわけではないけれど、トリック・犯人像・動機すべてに意外性があり、謎の提示もフェアで、惹句の「オラと青春(ミステリー)しませんか?」に偽りなしだった。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』が、「戦国合戦モノとしてガチ」なのと同じ意味で本作は「ミステリとしてガチ」だ。私はそれなりに本格推理小説好きではあるのだけれど、本作では犯人当ての材料も容疑者もきちんと手札を目の前に並べられていた──終盤で急に登場する黒幕キャラクターなどは本作では出てこない──のに犯人を当てられなかった。犯人当てパズラーとしての推理小説が好きだった坂口安吾が観たら絶賛するのではないか。フェアかアンフェアかでいうと、劇場スクリーンサイズで観るのと観ないのでは変わってくるかもしれない(これ以上はネタバラシしません)。
そして、犯人がわかったあとに、解明できぬ巨大な謎──児童にとって、保護者にとって、教育とは何なのか、もし名付けるならそういった類いの──が残される。私の好きなミステリというのはそういうものだ。論理を語ることによって、論理の向こう岸にあり決して答えに辿り着けぬ大いなる謎の輪郭が現れる。
ミステリとしての核心に据えられた、とある部分は、アニメ(またはマンガ)表現じゃなければ成立しない。小説じゃなければ成立しない本格ミステリがあるように、優れた「ジャンルもの」というのは、小説・マンガ・アニメ・実写・ミュージカルなど、その表現媒体でなければ成立しない場合が多いように思う。「映像化不可能と言われていた伝説の作品がついに映画化!」などという場合は、物語のスケールが大きすぎて予算規模が計り知れないからだとは限らないのだ。現に本作を改変せずにノベライズ化や舞台化するのは限りなく不可能に近いだろう。
ここまで書いたように本作はミステリ映画として傑作だが、クレヨンしんちゃんの名前と道具立てを利用して好きなことやらしてもらいます「ではなく」て、視聴ターゲットは明確に「小学校という存在が現実的なモノとして見えてくる四〜五歳の未就学児から、小学校が現実の生活になったばかりの六〜七歳の児童」と「その保護者」だ。舞台や道具立てやあらすじは公式サイトなり予告編なりで調べればすぐにわかるのでそちらを参照して欲しいが、端的にいってしまうと、本作の物語の主軸に置かれているのは、私立の小中学校にいく子たち・公立の小中学校にいく子たち・両者の保護者の話しだ。
クレヨンしんちゃんの劇場用作品は、『アクション仮面VSハイグレ魔王』派とか、『ヘンダーランドの大冒険』が良いとか、『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲オトナ帝国』だよとか、『ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん逆襲のロボとーちゃん』は傑作だとか、『新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜』は最高だとか、前作『激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』も良かったとか、作品ごとに映画としての好みは様々だろうし個人的なランキングもつけられなくはないけれど、今回は、ほんの少しゲームのルールが違う異色作ではあると思う。
なぜなら、児童教育において保護者側が良きにせよ悪しきにせよ意識してしまう「能力を伸ばす」や「選良たり得るか」というセッティングに関して、本作は明確な悪人や敵や悪意を設定せずに巨大な「謎」を仕掛けるのだ。いつかビジネスが成立しなくなるまではきっと永遠の幼稚園児のままでい続けるであろうキャラクター野原しんのすけをつかって、卒園から小学校、教育や成長を物語化する。そこはクレヨンしんちゃん劇場版シリーズとしては、好みや作品評価とはまた別にして「異色」の物語だろう。
ミステリ・パズラーであるのと同時に、真っ正面からメリトクラシーを描いた物語だ。能力が高く努力を厭わないエリートを生み出すのが教育なのか。教育機会が与えられた者とそうではない者。それらに関して、通りいっぺんの批判や賛意などのアティテュードを示すでなく、「青春」という概念で観客をカオスに叩き込む。加えてコロナ禍により教育機会や他人と触れ合い新たな風景や感情に出逢う機会など様々なものを奪われた児童たちに向けられた巨大で優しいラブレター・ラブコール・エールでもある。登場人物たちがマスクをしているわけではないけれど、これはコロナ禍でつくられた物語だ。シリーズが続く物語内のキャラクターたちは、その場では精神的な成長をすれど物語時空内の時間はけっして先へは進まない。だが観客はそこで描かれた想いを胸に抱き先に進む。
これまで14本の劇場シリーズが制作され原作マンガもテレビアニメシリーズも継続中の人気作『ONE PIECE』は、劇場第6作『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』(監督:細田守/'05)の野心的な試みで、物語のビルドゥングスロマンとしての側面に関しては、ある意味では終えてしまった(と評することは可能だろう)。テレビアニメシリーズも劇場版も作り続けられている『ドラえもん』には、原作マンガ版では最終回に相応しい話がすでにいくつか用意されている。
本作『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』は、クレヨンしんちゃんこと野原しんのすけの幼年期が終わる予感と、クレヨンしんちゃんを幼児向けの作品として永遠にすること、二つを同時に成し遂げている。劇場版シリーズでキャラクターや物語世界を終わらせぬままに、それをやり遂げた。それは驚嘆すべき、はなれわざだ。
ラスト20分ほどの活劇を観終えた子は席でマスク越しに「……感動した」と呟き、少し放心していた。