そういうもんじゃおめえ〈2024年7月マガジン〉

 数ヶ月前に、近所で嫌な事件があった。児童に関する事件だ。脊髄反射的に「おかしなやつが増えたな」と思わず感じてしまったが、日本全体でいうと実際の統計的な数字としての犯罪件数は減っている。ただ、個人的な主観としては、犯罪までに至らずとも日常生活の様々な局面で、駅や道やスーパーマーケットで、「理解し難い行動をする他人が多くなってきた」というのがある。つまり、これは、どういうことかというと、社会が変わったのではなく、私自身が狭量になった/(それとほとんど同じ意味で)何かしらの基準値が設定されて許容範囲の数値が定まったということである。簡単にいうと〈他者を拒絶しやすくなった〉。これは加齢、老いのひとつか。

 まちなかでやたらに揉め事を起こしたり年がら年中怒鳴るようになったわけではない。なったわけではないが──例をあげると、歩道をゆくベビーカーの横30cmギリギリをスピードおとさず走り抜ける大人の自転車などは、ドッジボールをするときに公園の地面に脚で線を引いた内野のようなプレイフィールドがあったとして、それが理解できる輪のような枠だとして、そこの枠に入るゲーム参加者として「数えなくなった」のだ。とはいえ、無視もできない。内野と交代せずに延々と外野からボールを投げてくるからである。私が遊んでいるドッジボールには出場してほしくない。

 ベビーカーの横30cmギリギリをスピードおとさず走り抜けてゆく自転車のような者を悪し様に罵ると、「別に事故が起きたわけじゃないのにそんなことくらいで相手を全否定する勢いで怒らなくても」「何も考えてないだけで悪意があるわけじゃない」という意味のことを言われることもあるけれど、もはやそこまで他人の都合や按配を勘定に入れる意味が見出せないのである。理解し難いのである。理解するメリットがないのである。
 通学路の歩道を完全に塞いで置かれた自転車(児童がそれを避けて歩道から車道に飛び出る可能性がある)を避ける理由がない。そんなところに歩道を塞いで自転車を置いてたらそのうち倒れちゃうよ、なぜなら歩行者にぶつかるから。歩行者は車道に出たら危ないので歩道を歩くからな。何度倒れたらわかるんやろな。悪意があって歩道を塞いでいるわけではない。でもそれを毎日避けている児童がいるのに気がついていない。しかし気がつかないのは不注意ボンクラドアホと指摘されても仕方がない。何故ならその自転車が寄りかかっているのは〈通学路〉の交通標識なのだった。わりと高そうやけどそういう自転車って倒れたらフレームやレバーが歪むんちゃうかな、でも「倒された」ちゃうで「倒れるとこに停めてる」んや。道の真ん中で道路塞いで横向きにクルマ停めるバカはおらんやろ、それとおんなじことしとるだけや、知らんけど。

 先に、〈何かしらの基準値が設定されて許容範囲の数値が定まった〉と書いた。範囲を超えた状態に関しては、徹底して距離を置くか、または徹底して介入するかのどちらかだ。

〈2024年7月マガジン〉の記事です。7/31付更新記事まで読めるのではなく、私が〈2024年7月マガジン〉に収録した記事が購入時の金額で読めます。大袈裟にいうと1年後に書いた記事を〈2024年7月マガジン〉に収録したら読めます(やりませんが)。だいたい月末日付の日記を書き終えたら更新終了です。なお、6月マガジンの更新もまだ続いています。こちらも私が〈2024年6月マガジン〉にこれから収録する記事を読めます。まだ6/5くらいまでしか書いてないですが……。


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