二〇二四年の勝敗
先日、NHKで放送されていた『七人の侍』。録画をしたが、はたして「いま」子に観せていいものなのか、迷う。
-
以前に、「サッポロ一番塩らーめん」(サンヨー食品)について書いたことがある。そのまま食べることも多いし、様々なアレンジも試してきた。
ふと、思った。「カップヌードル」(日清食品)でアレンジ、上記リンク先の言葉を使うなら〈チューンドメン〉は可能なのだろうか。
袋麺であれば、「サッポロ一番塩らーめん」以外でも「これはうまくいった」ことを何度か経験した。
上記写真は、袋麺に鮎の塩焼きを、ただ、のせたものだ。しかしでたらめにうまい。「鮎の煮干しをつかった清流房の淡口らあめん?そんなことしなくともそのまんまのせちゃえばいいじゃない」と。簡単だろうが、ラーメンはうまけりゃ勝ちなのである。芹沢達也に勝ったのである。
なお同じ袋麺を使ったものであれば、炙った帆立と大葉、少しの天かすと高菜チューブ
海老の頭を使った海老油を足すというのもなかなかいい出来になった。
-
私は、まずは手始めとして、手元にあった「カップヌードル カレー」でいくつか試した。
これは「カップヌードル カレー」にポテトサラダをのせたものである。これは、イケる、おれはやれるんだ──この時点で、私は奢っていたのである。客観的に見ても、私はチューンドメンの世界でそれなりの位置にいるのではなかろうか、と。
私はこのときから、「カップヌードル」、それも、もっともベーシックな「レギュラー」、あの白と赤の、なんとなく醤油ラーメンっぽいスープの、何度食べても飽きないアイツをチューンすることはできるだろうか?という思いに駆られ、二〇二四年は挑戦を続けたのである。「カップヌードル シーフードヌードル」を「温めた牛乳でつくる」のはよく知られた作り方だ。しかしながら、それは「違う」のである。外から見たら同じかもしれないが、それは確かに違うのだ。私のやり方ではないのだ。
まずはお気軽に、スーパーで売っていた切り落としの焼き豚をのせてみる。
なんの面白味もない。カップヌードルの上に焼き豚がのっただけ、退屈な発想にもほどがあるオマエはこんな程度だったのか失望したと、心の中の芹沢達也に罵られる。
次は豚肩ロースを軽くまだ少し赤みを残し、カップヌードル容器の中で蒸らされて3分で火が通る程度に炒めてのせて湯を注ぐ。
惨敗である。カップヌードルは、想像していた以上に海老の風味が強く、それが豚肉の脂身と衝突している。あきらかにのせないで別皿で食べたほうがうまいのだ。
では海産物ならどうか。小ぶりの冷凍ムール貝を入れた鍋で湯を沸かす。その湯をカップヌードルに注ぐ。
加熱されたムール貝を湯からいったん取り出して、出汁がでた湯をカップヌードルに注ぎ三分待ってから取り出して置いた貝をのせる。
まずくはない。まずくはないが、これはチューンした結果、最高速こそ伸びたが、燃費もフケも悪くコーナリングの安定感も無くしストリートでは乗りにくいダメなモディファイの典型であった。
同様に海産物で再挑戦を試みる。桜エビである。そのまま白めしにのせて食べたほうがいいぜと心の声がするが黙らせる。
カップヌードルに最初から入っている海老の風味を増す方向性で味をつくったはずが、桜エビの旨みがスープとあわない。見た目でいうとうまいに決まっているのだが、何も足さないよりもうまくないのである。化学変化が起きていないのだ。ブロック状の肉、乾燥海老、丸まった卵、醤油系のスープ、乾燥ネギ、そのあいだにつけいる隙がないのだ。
豚トロも試した。
シンプルにメンマを足してみるのも試した。
ホタルイカ、
バナメイ海老のニンニクバター炒め、
刺身用アルゼンチン赤海老、
挙げ句の果てには、追いがつおをして、
更ににんべんのめんつゆで乗算する。
まったくお話にならない味であった。散漫にも程がある。枠に囚われてそのなかでゴチャゴチャと思いつきを弄んでいるだけだ。ここに写真を載せていない試作がいくつもある。食材を足すだけでなく胡麻油を垂らすだのすりゴマをいれるだの豆板醤やXO醬を混ぜるだの……二〇二四年に試みた挑戦は全て敗北に終わった。
ああ、負けた。二〇二四年、おれは確かに負けたのだ。「カップヌードルに手を加え吊るしのもっているポテンシャルを更に引き出す」などという、自分の力量を超えた勝負──それは例えるなら体力づくりもせずにどこかの高い山に誰も成し遂げていないルートで冬季単独無酸素で挑戦のような無謀さ──に、負けたのだ。
-
黒澤明監督『七人の侍』。私自身は中高生の頃に、リマスター版かアニバーサリーかの上映で、映画館へ行って、大変な衝撃を受けた。「いうても、そのあとの作品群に多大な影響を与えて、公開当時は画期的だった個々の要素が時代を経て先鋭化されたものを沢山みているわけじゃん」と舐めくさって、勉強のつもりで劇場に行き、帰り道では「これより面白い映画ってあるのだろうか」「古典というのは古典になる理由があるのだ」などと価値観がひっくり返っていたのであった。しかし、やはり子に観せる/子が観るのはもう少し先がいいだろうなと思う次第だ。「いま、現在進行形の先端の文化がやはりいいのだ」と自ら感じているさなかに観たほうがいいだろうと想像している。カップヌードルに負けて欲しいのである。