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淡々と生きるのを、しばらく休止しようと思う。

今日はめちゃくちゃ久しぶりに電車に乗りました。たぶん2ヶ月以上ぶりじゃないかなと。

県境を跨がないように熱海から西向きの移動だったんですが、ちょっと驚愕したのが電車の人の少なさです。ひとつの車両に4人しか乗っていない…。圧倒的に非密接空間でした。

(普段の混み具合を知らないので、もしかしたらコロナ以前と一切変わらないという可能性も否めません)


はい、本題からズレたので強制的に戻しましょう。

そんな風に久々の電車移動をしているとき、ふと頭に浮かんできたこと。それがタイトルにもした【淡々と生きるのはやめよう】という言葉でした。


これまで note でも、

淡々と「いま」に向き合い続けることこそが、徳のある生き様。
長い人生をじっくり謳歌する秘訣は「淡々と生きること」である。
ただ淡々と毎日ルーティンを贈る価値。
一過性のブームを作ることではなく、日常を淡々と紡ぐことに本当の価値がある。

というように「淡々と生きる」というテーマの記事をいくつも書いてきました。僕の中でのここ1〜2年の最大のテーマのひとつだったのだと思います。


僕自身、元々は夏休みの宿題を最初と最後にまとめてやってしまうような「短距離走型」の性格でした。20代前半までは、間違いなく「淡々と生きる」から真逆の人生を歩んでいたなと。

その反動と、淡々と日々積み上げている人たちのカッコよさに憧れて、僕自身の生き方を「長距離型」にシフトしていったのが28歳から29歳の期間だったように感じます。


実際、僕自身の内側の変化としても、刹那的に生きていた頃と比べて、確実に精神的な落ち着きは増していて、自己肯定感や自己効力感も段違いにアップしました。

これまで「積み上げてきた」という自信を一切持っていなかったからこそ、淡々と日々積み重ねていくことを実感しながら生きることは、僕の人生の視座をグッと押し上げてくれた気がします

そしてきっと、今後も「淡々と生きることの価値」は不変の真理のように存在していて、僕の中から消えることはないでしょう。


ただ、『刹那的に生きる』と『淡々と生きる』は使いどころによって優先度は変わるんだろうと感じていて、そのときの時代の流れで使い分けをしていくべきなのだろうなと。

少し先(数年もしくは数十年先)の未来が見通せるときには「淡々と生きる」ことを重視して、予想のつかない時期は「刹那的に生きる」ことに振り切った方が良い。

そう考えると、いまは間違いなく『刹那的に生きる』を重要視したほうがいいタイミングです。読んでいるあなたにとってどうなのかはわかりませんが、少なくとも今日この瞬間の僕にとっては刹那性を持たないとヤバい気がしてなりません。


じゃあ具体的にどうしていくのか。

まだ見えていない部分のほうが多いですが、とりあえず小さなことでも新しいことに挑戦する機会を増やしていこうと思います。数日スパンで取り組むこともあるかもしれませんが、毎日1個ずつを目標に。

同じ枠組みの中で淡々と積み上げて生きるのは一旦休止して、新たなことに挑んでみること自体に淡々と取り組む方針を、しばらく続けてみます。

また心境や状況の変化があれば記事にしようと思うので、温かく見守ってもらえると嬉しいです。


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というわけで、今日の記事は以上になります。
noteは今まで通り毎日更新は続ける予定ですが、企画や内容は実験的なものが増えるかもしれません。

では、またあした〜!

▶︎ 合わせて読んでほしい記事 ◀︎
≫ 直感が働いたとき、それを論理的な戦略まで落とし込めるかどうか。
≫ 僕らは「暇」を前提とした時代に生きようとしているのかもしれない。
≫ 自分史の戦略を見直すタイミングがやってきた。


P.S.
なんかタイトルに既視感あるな〜と思ったら、以前に Wasei Salon で鳥居弘文さんが書いていたブログでした。(笑)


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