京都人をこじらせた、愛すべき「宇治人」という人たち
「京都人ですよね」と言われると、「せやで」と言いつつ人を騙しているような気持ちになる。けれど一方で「ほな関西人ですか」と言われたら、心のなかで「どこがやねん」と思ってしまう。
そんなことを思うのは、私が “いけず”と言われる「京都人」が住むエリアでもなく、何でも笑いに変えようとする「関西人(≒大阪人)」が住むエリアでもなく、「宇治」で生まれたからだ。
宇治といえば、「宇治茶(宇治抹茶)」。そんなイメージを持つ人も多いだろう。古典好きな人は源氏物語を頭に浮かべるかもしれない。しかし、そこで生まれ育った私にしてみると、宇治の魅力はそれだけではない。
そして、その魅力を支えるのは、間違いなく京都でもなく関西でもない「宇治人のアイデンティティ」だ。宇治出身のアーティスト「ヤバイTシャツ屋さん」や「岡崎体育」さんの曲を聞いて、最近、そんな事に気づいた。
京都市および関西にお住まいの皆様には怒られるかもしれないが、京都と宇治の関係を早回しで説明しながら、洛外の田舎者である私が思う「愛すべき宇治人」の話をしたい。
カースト社会・京都で、中の下の位置にいる宇治
京都本などではよく語られる説明だが、人々が「京都人」をネタにしている時、「洛中の人」について言及されていることが多い。「『洛中』って一体何?」と言われると、時代ごとに変わっていることもあり非常に難しいが、洛中とは “都の中”であるから、つまり古くは平安京があったエリアだ(きちんとエリアを定めたのは豊臣秀吉が最初らしい)。
ざっくり御所の周りのエリア、としておくと、府外の人たちからもイメージしやすいのではないかと思う。(「あんなとこ、洛中ちゃうわ」と言う意見が聞こえてきそうやけど、文字数制限のため色々省きました。堪忍やで)
それこそヤバイTシャツ屋さんの『どすえ〜おこしやす京都〜』という曲でも、「洛中と洛外じゃ文化違う」と歌われているが、かの有名な「ぶぶ漬け」なんて、私は見たことさえないし、三代前の家族が何をやってた人かなんて全然知らない。
そして、洛中どころか京都市外(問題外のエリア)の人間から見れば、京都はカースト社会である。カースト上位の皆様は、カーストが下の人間のことを「京都人ちゃう」と思っているだろうし、カースト下位の人間はカースト上位の皆さんへの思いをこじらせている。
同じく『どすえ〜おこしやす京都〜』の歌詞の中でも、「かくいう僕も京都生まれ ただほとんど宇治で過ごしました」という歌詞が出てくるし、岡崎体育氏も、以下のようなツイートをする。
宇治人は自分を便宜的に「京都の人」と紹介する時、自主的に補足する。言われなくとも洛外の人間はわかっているのだ、自分は京都人じゃないと。
京都の中に存在するカーストは、京都御所を中心に、京都市内、京都市外とカーストは広がっている。しかし実際は洛中の人の中にもさらなる序列があるようだ。かの有名な京都本『京都ぎらい』では、こんな一節がある。
さて、宇治である。
そんな中で宇治市は、カーストの中の下ではありつつも、データで判断すれば、京都府下で人口が二番目に多い都市だ。お茶が有名すぎて茶畑ばかりかと思いきや、結構都会。さらに、意外と京都を代表するようなものも作っている。いちばん有名なのは先ほども挙げた「抹茶」だろう。都市である割には、お茶の生産量も京都府内トップクラスで、宇治茶はあまりにも有名だ。ちなみに、小学校では蛇口からお茶が出る。
さらに、宇治からは様々な世界的コンテンツが生まれている。「源氏物語」終盤の “宇治十帖” という物語は、その名の通り宇治が舞台だ。現代においても、先述のヤバイTシャツ屋さんや岡崎体育さんのようなアーティストを輩出しているのはもちろん、ヲタクが大好きなゲームとアニメについても、「任天堂(宇治工場)」や「京都アニメーション」が存在している。
「よそもん」だから育まれた、宇治人のアイデンティティ
そんな創造性に溢れる街、宇治だが、そのクリエイティビティの背景には、宇治人が持つ圧倒的な「よそさん」力があると思うのである。
「よそさん」とは京都の人が外から(外は、京都府外を指すこともあるし、京都市外を指すこともあるし、洛外を指すこともある)やってきた人のことを、多くの場合 “我々の文化になじまない人” というニュアンスを込めて言う言葉だが、宇治人は、割といつでもどこでも “よそさん” だ。
京都にいても京都人ではないし、かといって関西人とひとくくりにされると居心地が悪い。当然、東京人になんてなれない。どこでもどこか、よその人扱いである。
しかも宇治人は、割と皆の気持ちがわかる「よそさん」だ。京都人に「よそさん」と言われるけれど、京都市内の人間の性質をよく知っている他人は我々だという自負があるし、「関西人」と呼ばれると「ちょっとちゃうねんなあ」と思いつつも、ちゃんと毎週休日の昼は吉本新喜劇を見て育ってきた。それなりの都市でもあるから、少しは都市生活者の気持ちもわかるつもりだ。
そして、京都の排他的な “洛中文化” と、東京の “純東京人文化” は似ているとも思う。『あの子は貴族』に出てくるような、昔から東京に住んでいるハイソな皆様と、それ以外の東京出身者と、上京者たち。心のどこかで、「よそさん」と誰かを呼んでいたり、呼ばれるのに怯えていたりするのは、東京の人も同じじゃないか?
でも大丈夫、そんな気持ちだって宇治人はしっかりわかる。宇治人は、みんなのことを客観的に見ながら、少しずつ気持ちも理解できる「よそさん」なのだから。
よそさん力の他にも言及したいのが、宇治人には京都人のアイデンティティである圧倒的な言葉のクリエイティビティがあるということだ。京都に住んで十八代、生粋の京都人である「菊乃井」の店主さんが書いた『京都人は変わらない』という本に「京都人は、言葉の使い方が巧み」と書かれているが、それは私もそう思う。よく言われる、言い方がいやらしいという意味での京都の “いけず” は、どちらかというと “婉曲的”という方が正しい。”角が立つ”し、失礼なことを言って相手に恥ずかしい思いをさせたくないから、「遠回しに言う」のである。(便宜的に)京都人の私にしてみれば、東京の人があまりにも直接的に批判しあっているのを見ると、「もうちょっと言い方あるやんか、聞く方ももうちょい察しいな」と思わないこともない。
私はこの婉曲的表現の豊かさを「クリエイティブ力」と言いたい。だって、日本の他のどこの地域のみなさんが、「あんたの子供、うるさいねん」と言いたい時に、「息子さん、ピアノ上手にならはったねえ」というセリフを思いつくだろうか?結局、我々を「いけず」というのは、少々極端に言うのなら、トリッキーなフレーズの妙に感嘆しているだけでは?とも思う。
そして当然、「関西人」でもあるから、吉本仕込の「ウケ狙ったろ」のマインドも懐にしっかり携えている。
客観性と表現力、そして “ウケ” への探究心。そういった背景が、宇治のクリエイティビティを支えている。
ヤバTと岡崎体育。宇治が誇るアーティストに「宇治らしさ」を学ぶ
最近そういった宇治人のソウルをすごく感じるのが、音楽の領域だ。
今回の記事ではその中の一部、ヤバTことヤバイTシャツ屋さんと岡崎体育さんの話をする。
度々紹介している「ヤバイTシャツ屋さん」の「どすえ〜おこしやす京都〜」は、まさに宇治人の歌だと思う。「なんか粗相したら京都市民のみなさんから攻撃される気がするんだ」なんて歌詞はまさに、私の今の気持ちである。
ヤバイTシャツ屋さんのボーカル、こやまたくやさんは宇治中学校出身で長く宇治に住んでいたそう。ちなみに余談中の余談だが、私は彼と同じ年に生まれ、彼がバンドを組むきっかけになったという2008年の「京都大作戦」にも参加していた。宇治市は新時代のアーティストを生み出す音楽フェスもある街なのである。
そんな音楽フェスに高校生から参加していた私。ヤバTの曲を聞くとめちゃめちゃ楽しいのは、キャッチーかつオリジナリティ溢れる音楽が素晴らしいことはもちろんとして、それが「よそさん」の歌だからではないかとも思う。人気曲「ハッピーウエディング前ソング」も最新曲「ちらばれ!サマーピーポー」も、どちらも、結婚しようとする人間でもサマーピーポーでもない——主役ではない「よそさん」視点で歌われた歌なのである。
しかし、だからこそ、一般の曲で主役になるような人たちのことを客観的に、「あるある」満載に、楽しく伝える曲になっている。そういう、日常の中の「洛中」を客観的に表現して(かつ、よそさんの自分についても)歌うのが、ヤバTの歌詞の楽しさの大きな要素の一つではないだろうか。
これは、ボーカルのこやまさんが意識しているというオレンジレンジと比較すると面白い。楽曲の楽しさやキャッチーさについては、意識していることについて「なるほど」と思うのだが、歌詞を聞くとオレンジレンジが、上海ハニーと浜辺で社交ダンスを踊るのに対し、ヤバTの皆さんはそういった人たちを横目に見ながら、ビーチバレーを屋内で開催している。
しかし、我々宇治人は決して、周りと違うことを怖がったり、卑屈になったりしない。むしろ、小さい頃から「よそさん」なので、よそさんの自分らがちょっと落ち着くし、面白がり方もわかっている。『あつまれ!パーティーピーポー」という曲では「PARTY PEOPLE PARTY PEOPLE 混ぜてくれ」と素直にうたうこともできる。
さらに、岡崎体育さんは、最近まで宇治に住んでいた生粋の宇治人アーティストで、自らの音楽を『盆地テクノ』と呼ぶ。まさに音楽を聞いていると、「客観視の天才や!」と言いたくなる。
ヒットのきっかけとなった『MUSIC VIDEO』は、まさに世の中にあるミュージックビデオを客観視して歌っているし、『Explain』も何気なく聞いてきた音楽の構成に気付かされる。客観視、表現力、ウケたい気持ち。宇治人の基本三原則にあまりにも忠実なのである。
さらには、よそさん——つまり、“王道の外側” を楽しむことも忘れない。 よく聞いたら英語っぽい日本語で歌っている『留学生』や『Natural Lips』を並べてみると、サウンドは完全に「王道」「本物」なのに、実は王道を客観的に見た上で再構成して、本人はその外側にいる。
多くの人が触れにくい『おっさん』というテーマについて歌われた曲は、面白いのに泣けてくる。突っ込んでるフリして優しく指摘して、その姿を前向きに捉え直すような言葉でうたう。これは、京都の “いけず” の応用技ではないだろうか。言い方を変えながら、楽しく、本当に伝えたいことを伝えるのは、関西人や京都人の得意技である。
お二方の音楽を聞いていると、音楽が好きで、目の前にあることを俯瞰して面白がるのも好きなんだなあと感じる。加えて、王道のすぐそばでちょっと違っている自分が好きになる。
“洛中” を生きる人達も好きで、 “洛外” を生きる自分も好き。音楽が好きで、音楽を聞いて楽しんでくれる人も好き。そんな音楽愛を、感じるのだ。その愛を、カッコいい音楽でやりきっている姿はあまりにもカッコいい。
“じゃない方” の京都に根付く、楽しい文化
これまで「京都」と言うと、洛中ばかりが注目されてきた。
しかし、それじゃあ洛中の外側には全く文化は無いのか?私はそうは思わない。
オーセンティックで洗練されていて、伝統に裏付けられた本物の文化。それが京都の代名詞だろう。それも確かに素晴らしい。しかし、そんな京都と、さらには大阪の濃い文化に板挟みになりながら、「でも自分は違っている」ことをマイナスに捉えすぎずに面白がって膨らんできた文化を持つ宇治も、面白いと思うのだ。
「よそさん」として生きてきたからこそ得た、客観性と表現力とウケたいマインドで、多くの人が共感し、心も体も動くようなモノを作る。そんな宇治人を、私はかっこよく思う。
そして私も、紫式部先輩(岡崎体育さんがそう呼んでいる)を筆頭に、ヤバTさんや岡崎体育さんの曲を見習いながら、誰かが楽しんでくれる何かを、面白がりながら作っていきたいと思うのだ。