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健康診断 ~昇天メニューで遭いましょう~

毎年の健康診断に出かけた。これは国民としての権利であり、人間としての責任であり、あるいは生き続けるうえでならば義務なのかもしれない。健康に興味がないわけではないが、毎年必ず!と半ば強迫的に案内されると、少し鬱陶しくなってしまうのは、体になにか病の兆候が見つかってもおかしくない年齢に達したからなのかもしれない。

旧居では、信頼のおけるクリニックで毎年受診していたが、転居してしまうと、なかなか時間がないのを理由に、本当は件のクリニックに行きたいと思えど、つい近場で済ましてしまう自分は「健康ものぐさ」だと改めて感じる。自慢ではないと前置きしながら自慢なのだが、これまで大病はおろか、入院も手術もしないで半世紀近く生きてきた。その慢心が…とは思うものの、こうして元気でいられる奇跡には感謝せざるを得ない。

この朝も、はじめて世話になる病院での健康診断ではあったが、まるで新聞を読んだり、コーヒーを飲み終えたマグカップを洗うように、特別なことをする心境でもなく、診察券と受診シールを窓口に提示する。引き換えに、いつものように、待ち時間にでも目を通すのか、健康に関するチラシや冊子が渡される。

健康のためにはアレはダメ、これもダメ、アレをしなさい、コレをしなさい。親切なアドバイスや情報で、ページは隙間なく埋め尽くされている。さて、ではそれもまた余計なお世話だ、とでも書きそうな勢いかもしれないが、そこまで頑固ではない。むしろいつも気になるのは、これだけの健康情報を提供され、指導され、あらゆる病気のリスクをいかに下げるかまで心配してもらうと、逆に自分はどんな病気で死にたいか、を選ばされているのだと知ることになる、ということだ。

あってはならぬ不自然死でない限り、人は何かしらの病気で死ぬ。病気と全き同意でないかもしれないが、老衰でも死ぬ。どちらがハッピーなのか、それは人それぞれであろうが、老衰という死に方を選ぶことも選択に相違ない。過剰な物言いかもしれないが、人間は、生きなければいけないのと同じ語気で、なんらかの形で死ななきゃならん、のである。健康診断の場であれば、そうした指導や情報を前にして、何によって、直截にいえば、どの病気でなら納得して死ねるのか人生設計をしているのだ。

あの病気には罹らず、この怪我を避けて、どの病気で命を終えるか、まるでメニュー表を吟味するように熟考する。健康診断を受けるたびに、いまや、お葬式なし、お墓なし、断捨離だ、終活だ…といったスタイルの選択以上に、実は知らず、健康を確認する場所にて病気を選び、死に方を選んでいる、そんな時代なのだと考えたりするのだ。(了)

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