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音楽的半生覚え書き。

色々と思うところあって、自分の音楽的半生なのか反省なのか怪しいけど、なんとなくここに記しておく。

14歳の時、学校祭で2個上の先輩がバンドで歌ってる姿に衝撃を受けて「俺もあんな風になりたい、想いを叫びたい」と思い立ち同級生とバンドを始めた。壮絶ないじめ問題を隠蔽する小学校やDVを受けて育った大人不信の俺には音楽が救いの光に感じた。高校に入っても音楽に明け暮れ、学校を中退してバイトと音楽にのめり込んだ。18歳で組んだ初めての自分のバンドは地元山形や仙台で有名になり県内外のコンテストに片っ端から出ては賞をかっさらって行った。それもあって20歳の頃、某音楽振興会の東北支部からスカウトされたが断ってバンドをやるために上京する。

THE JAM FREAKS
ギターを担ぐのはこの頃からの癖のようです

若さゆえの根拠なき自信だけは相当にあったが上京して組んだバンドは人気は出ず、レコード会社にデモテープを送りまくるも無反応だったが某レコード会社の社員がライブを観て気に入り担当に付いた。しかしそのレーベルが吸収合併で消滅、担当は異動となり頓挫する。なかなか埒が開かない状況でメンバーが揃って脱退、2年で活動休止になる。若さゆえの自惚れと勢いだけの時期であった。と同時期に仕事で怪我をし、それが原因でバイト先をクビになり、同時期にバイク事故で怪我、バイクは全損、同居人と別れ部屋を追い出されるという四重苦に見舞われたのであった。24歳、初めての厄年だった。

C.B JIVE (CROSS BLEED JIVE)

半年間の休止のあと、メンバー募集で加入したドラマーが今や売れっ子の天才ドラマーで、そこから知り合った人間関係やレベルの高い仲間の中で自分のポテンシャルも向上していった事で音楽環境が充実していった。ドラマーの仕事が増えたことでバンドは1年ほどで終わりを迎えるが、それは必然に思えていたので先の挫折に比べたら大したことはなかった。次の動きを探るために毎晩のように仲間とセッションを行なった。

その後、セッション仲間たちで新たにバンドを結成する。歌モノとファンク、ロックを取り入れたこのバンドはそこそこの集客力があって、ライブは毎回30人くらいは集めていた。僕の髪が青かった頃ですね。人気も出始めて事務所関係の人たちが寄ってくるようになった。が、メンバーチェンジやちょっとしたことで噛み合わなくなるとあれよあれよという間に集客が減って最後には1桁になった。結果的に3年間の活動で解散することになった。良いバンドだったんだけどね。

PARADISE SOULというバンドでした

心機一転始めたバンドは上京して最初に組んだバンドのメンバーだった。前のバンドが解散したことを契機にまた一緒にやりたいと言われ、それならこれを最後のバンド、最後のチャンスと思ってやろうと新たなバンドを結成した。感覚でしか行動できないタイプの人間ではあったが過去の反省(笑)も踏まえ、いくらか戦略的にライブやイベントを行い、オーディションにも参加した。その中で某プロデューサーに気に入られ、赤坂にある某事務所のレーベルに入ることになる。プロユースのスタジオで贅沢にも2週間レコーディングを行った(当時だったら相当な金額!)こそうしてどうにかインディーズデビューまでは漕ぎ着けた。これで波に乗って次はメジャーへ!
だがしかし売れていったのは後から入ってきたバンド達だったし、結局失速してあっという間に落ちてった。メンバー脱退して一人になってレーベルを離れることになった。様々なことが重なりメンタルやられてしまって2年間音楽から遠ざかることになる。自分の中でメジャーに挑戦するリミットとして決めていた30歳を越えたところだった、2度目の暗黒期である。

WONDER DRIVE

しばらく音楽から離れて仕事に打ち込んでいたが、2年近く経って少し落ち着いてくるとやはり音楽への想いが抑えられなくなっていた。そんな中、事務所時代の仲間のドラマーが連絡をくれたことをきっかけにバンドを再開することを決意する。ギターサポートで他のバンドもやったり凄く精力的に活動した。音楽の仕事を頂くようになったのもこの頃。そのバンドではワンマン200人動員したしミュージシャンとしても充実していて、年齢はそれなりになったけどここからまだまだ行けると思っていた。でも人間はちょっとしたことでつまづいたりする。バンドだってそれぞれ違う人間が集まっている訳だから上手くいかない事もある。悪いタイミングが重なると終わるのはあっという間だ。サポートしていたバンドは解散し、その後は自分のバンドの活動に専念することになる。

WKTB - ワタナベカズヒロスロウバウンド

そこから数年は悪くなかった。自分以外はサポートメンバーだから決定権は自分にあるし、予算も経費も全て自分で動かせる。その上でサポーメンバーのみんなはとても協力的でポジティヴに回っていた。しかしだんだん自分の中でバランスが取れなくなっていく。自分の理想との乖離、過去への未練、金銭面、最終的に一人だという孤独感、さまざまな要因で音楽が辛くなっていった。尚且つ人間関係のトラブルもあって再びメンタルをやられてしまっていた。そんな感じだと周りから人は減っていくものだ、あの頃と同じようにひとりひとり離れていく。俺はこのまま辞めていくんだろうな、それはいつだろうな、毎日そんなことを考えてた。

WONDER DRIVE(4人編成時代)

ある日、辞めることばかり考えている自分に気がついた。音楽が大好きなのに自分に罰を与えるような思考になっていることに気がついた。こんなのは間違っている、こんな気持ちで音楽をやったって誰にも伝わらないし誰も幸せにできない。このままじゃダメだ、そう思って一旦バンドを休止することを決めた。変わらなければならない、自分で変えていかなければならない、そのためには一度一人に戻ってやり直す必要がある。そう決意してソロになった。もう40代も半ばだった、ゼロからの再出発だ、文字通りお客はゼロだ。バンドやってた頃だったら動員無しなんて耐えられなかったと思う、けどそれどころじゃなかった。年齢も気にしている場合じゃなかった。歌い続けなければ、自分の力で切り開いていかなければ。まだまだ終わりたくない、そんな想いで必死だった。3度目の暗黒期は自分の力で越えたかった。

RYOJIROCKソロ初期
足元も今とは全く違う、ルーパーも簡単なものだった

バンド界隈の端っこにいた人間が右も左も分からない弾き語り界隈に飛び込んだ。無論お店も知らなければ仲間もいない、自分でネットでお店を調べてアポを取った。そうやって少しずつあちこちのお店に出演するようになった。当初はバンド時代のお客さんがたまに来てくれたりしていたけど、いつの間にか入れ替わっていくんだね。対バンのお客さんが観てくれたり、初めましてのお客さんがまた来てくれたり、気がついたら1人、また1人といつの間にか俺の周りには音楽仲間がたくさん増えて、たくさんとは言えないけどお客さんが観に来てくれるようになった。ソロになってから地道に通い続けた各地で仲のいいお店が増えて、たまにしか行けなくてもお客さんが待っていてくれるようになった。

そうやって各地でライブしてみんなと素晴らしい時間を分かち合えるようになった。ソロになって7年、あっという間だったように気がする。こんな日が待ってるなんてあの頃の自分には想像も出来なかった。音楽辞めなくて良かったろ?とあの頃の自分に言いたい。ひたむきに音楽続けてきて良かったなと言いたい。そして俺を受け入れてくれた仲間たちに、RYOJIROCKの音楽を信じて一緒に歩んでくれたみんなにはとても感謝してる、本当にありがとう。みんなのお陰で今、歌えています。これからもどうぞよろしく。

とまあ、それなりに中身の濃い人生を送ってきたので全部書き出したら一生終わらんのでかなり端折りましたが概ねこんな感じかと。色々あったけれど、さまざまな人たちの支えがあって今こうやって歌い続けていられる。手を差し伸べてくれたり、背中を押してくれたり、共に苦労してくれたり。自分一人ではここまでやってこられなかったと思う。みんなにはほんと感謝しかない。それぞれ直接お返しするというより、音楽で返したり誰かに手を差し伸べたり自分に出来ることをやろうと思う。そうやって思いやりが巡っていくような気がしているよ。

俺の転機には必ずと言っていいほどこの人がいてくれた。

人間の幸せはそれぞれ違うし年齢によってもその置き所が変わっていくものだと思う。何が正解とかどれが正しいとか俺には解らないけど、今はこんな日々を大切にしたい。みんなの活力になるようなライブをしたいし、みんなと笑っていたい。「今日も楽しかった、じゃまたね」と。そんな日々をみんなと共に出来るだけ長く続けたい、今は心からそう思うのだ。


RYOJIROCK


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