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「だれかの映画史」タコシェ@中野
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何年ぶりだろう。中野ブロードウェイのデイリーチコ、値上がりしたなあ。ソフトクリームの甘味が少なく水のように飲めるから好きなんだけど。ミドルサイズのソフトクリームで暑さを紛らわせ、同人誌の「タコシェ」に行った。タコシェ?「タコの家」じゃないよなと思ったら、本当に「タコ焼き屋の跡地だったから」らしい。知らなかった。
タコシェには「だれかの映画史」という実兄弟による本を買いに行った。兄が文章を書き、弟が絵を描く。その「牛島兄弟」(ユニットにどう敬称をつけたらいいのか分からない)のことはこの記事で知った。
こういう「ティーンの挫折」を書かれるとイチもニもなくキュンキュンさせられてしまう。そうしたかつての痛みを、大人になってから思いやれているのも良い。「何かに夢中になっている人は、すべてを手にしたも同然だ」――いい言葉だな。
時間を置いてみれば、孤独は親友のようなものだ。それが分かるまで生きることが大事だ。もちろんそこから得るものは様々であろうし、何につなげるかという話ではあるし、どこにもつながらないかもしれないけれど――若い日に孤独から得るものはあれ、失うものなどない。
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「だれかの映画史」という、彼らの「自分史」。うん、そういうのがいいねえ。いつか全部ちゃんと読む時間が取れるか分からない。ただ愛しさを呼び起こした言葉を、紙で持っていたかった。
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「人は青春のさなかにいる時、それを宿痾のように感得する」――これは「マルドロールの歌」の訳者による文庫版あとがき、その出だし。成長は苦しいよな。分かる。でも楽に通り抜けるな。くだらない大人になる――帰りのバスで「だれかの映画史」の手触りを楽しみながら、胸に呟く。牛島兄弟に言うのではない。窓の外の、行き交うヘッドライトしか見ていない。窓ガラスに反射した自分を見ることもない。夜がある。いつか見た夜。こんな風にバスの座席から探していたのは、あまりにも空疎な希望だった。若かった私が結末を知っていたら、未来を願っただろうか? ――「いいえ」。
ただし若い日の自分に会ったら、「それでも生きろ」と言う。そのまま田舎にいろ、母親から目を離すな、お前の人生はそれでいいし、それが後悔しない唯一の生き方だ――そう言うだろうが。
嬉しいな、まだ観てないフィリップ・シーモア・ホフマンの映画がある。そんなことで生きてもいいだろう? だから私はきっと「あの頃ペニー・レインと」を観ない。