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絵本「パパと怒り鬼」と男性の不在

(ネタバレあります)

 2011年にグロー・ダーレの「パパと怒り鬼 話してごらん、だれかに」という絵本の日本語版が出版された。父親のドメスティック・バイオレンスを少年のまなざしでとらえたノルウェーの絵本だ。ママに暴力をふるうパパもパパに暴力をふるわれる姿を子に見せ続けるママも絶望的におそろしくて、絵も決して絵本だからと迎合せず、物語は状況の陰惨さを見つめて妥協しない。救いは、おうちの中で起きていることを口外しないようにママから言われている少年を近所の人が救おうとする展開だ。誰にもお話ししちゃダメなのね、じゃあこの子(連れていた犬)に言いなさい、それならいいでしょ、と導いてあげるのだ。それが状況を打開するきっかけになる。少年は王様に手紙を出せることを知る。

 物語はその後、デウス・エクス・マキナ的な展開を見せ解決される。王様が少年からの手紙に応え、パパはお城で暮らすことになる。事実上、隔離されるのだが、パパの一人格として表現される「怒り鬼」がやがてパパから切り離されるであろうこと、いつか少年がパパに会えるかもしれない希望を残して終わる。この絵本ではそのように国家(公的セクター)の介入を必須なものとして示している。ドメスティック・バイオレンスは家庭内で解決するものではない、できるものではない。その厳しさを描こうとしている。多くの人が私とは異なる解釈をするが、この絵本では暴力を受けるママさえ単なる被害者としては描こうとしていないと感じる。ママは少年を守ろうとする姿勢は見せるが、状況から救い出すことはできない。とても、とても冷厳な本だと思う。もちろん、それは状況が冷厳なのである。

 この本については、本そのものではなく周辺の状況に少し苦い思い出がある。――知人が出版に助力していたため、私もノルウェー大使館でのレセプションパーティにも出席させていただいたのだが、いつもそのような場に「男性がいないこと」を、東ちずる氏が嘆いていたのを覚えている。それは誰もが感じるような違和感だった。確かにその場においても、私と大使以外には男性の姿はなかったのである。そして、そうした状況は社会運動でも常態化していた。もっと言えば、フルタイムで働いている人は活動することが本当に難しい。それは女性もそうなのだ。

 この本と、当時のそんな思いをふと書きたくなったのは、ぼよんさんの記事を読んで、男性の家庭や社会との関わりがとても制限されていることを改めて感じたからだ。もちろん状況はこの13年間でもよくなっている。それも感じてはいるけれど、育休の取得さえ進んで行かないという。職場は、社会は環境を整備しているだろうか。「パパと怒り鬼」における「王様」、その決断、その導きが、やはり必要だと思うのだ。

 社会運動周辺でいつも私が思っていたこと。


 

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