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GODIVA、2025

"Dont stop me now"

 愛したのは、ブランドだの流行の何かなどに全く関心がない男だった。彼に高級菓子の店名を覚えさせるのは至難の業だ。ただ GODIVA なら分かる。Queen が好きだからだ。「ドント・ストップ・ミー・ナウ」には人名として GODIVA が出て来る。「バレンタインデーにゴディバのチョコレートをもらった」ということは記憶に残る。それが、毎年 GODIVA を選ぶと決めた「もうひとつの」理由だった。
 それなら同曲には「ファーレンハイト」も出て来るのだが。「華氏」と名付けられたそのトワレをプレゼントしても、きっと付けないだろう。めちゃくちゃ良い香りだけど。「その香りを漂わせた年上の男に口説かれていた」と思い出話をすれば、嫉妬するだろうか。いや、もうしないか。いかにも90年代風な恋。どうして付き合うに至らなかったのだろう。思い出せない。

今年は楕円の箱に入った、9粒入りのにした
ハート型のボックスでもよかったのだが、内容的にこっちだったのだ

 今日は若い男性スタッフひとりだった。「どのような贈り物ですか」と訊かれたので、「バレンタインですよ」とだけ答えた。あとはチョコレートの味や香りについて質問しただけ。
 30代の男性には、50代の男が恋愛をすることが理解できないだろうと思うがどうだろう。たぶん彼が50代になれば分かる。身を焦がすような情熱かどうかは人によるだろうが、誰かの存在が、日々を生きる理由になることもある、と。愛されたと記憶に残るように、手渡される贈り物があると。


 帰路、「ああそうだ」と思い出した。ファーレンハイトの恋人は、数度のデートで終わったのだ。こちらの服は脱がせるが自分は脱がないような人で、若かった自分にはそれが理解できなかったのだ。心を隠されているような気がした。きっと、もどかしかったのだと思う。好きは好きだったから。


 結婚のようなことがあって、一緒に暮らすような日が来れば、「バレンタインデーは必要なくなるかもしれない」と、ふと考えた。脈絡も理由もない。ただ、そう感じたのだ。どうだろう、分からない。ではこのまま結婚できずにまた数年たてばどうだろう――その場合もまた、「習慣がなくなるかもしれない」と、やはり根拠なく、今日は思った。51歳の男には、61歳になったときに人が人生の重みに耐えられるものかどうか想像できない。そう、今年はふと思ったのだ、「待ち過ぎた」と。紙袋のなかでは、9粒のチョコレートが入った紙箱が重心の定まらないまま揺れていた。ハート型のアルミケースを選ぶべきだったかもしれない――そちらのケースには「2025」と刻まれていたからだ――人生には愛もあったと、彼がのちの人生で思い出せるように。


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