メロンパンにいちごジャム
メロンパンとここでは書くが、サンライズのことである。
まあこうした気遣いを重ねて行けば、遠からず「今川焼とここでは書くが大判焼きであり蜂楽饅頭でありすなわち回転焼きのことであるがつまるところ甘太郎のことに他ならない」など対応しなければならなくなるのは目に見えている。ニーズとは、サービスが生み、サービスが広げるものなのだ。そして渇望が生まれる。カスハラも。だからお菓子の紙袋をショーケース越しではなくわざわざ通路まで出て来て渡すとか、始めなきゃよかったんだよ。ね。
そんな話で言えば、ブルボンの「チョコあ~んぱん」などどう説明していいのか分からない。入っているクリームはチョコらしいのだ。あんパン要素はないのだ。だったらチョコパンでいいだろう。厳密に言えばそれはパンですらないだろう。「きのこの山」「たけのこの里」に類する菓子である。
――そう、ともあれメロンパンである。
実は私は長いこと、どうして多くのメロンパンにはいちごジャムが挟まれていないのだろう、と考えていた。そう友達に語り、同僚に話し、一様に無視された。言い換えれば私は満身創痍である。途中から分かっていた、メロンパンにいちごジャムがサンドされていることなどないと。でも確かめずにいられなかった――私にとって記憶する限り初のメロンパンには、いちごジャムが挟まれていたのだ。私はまだ子どもだった。某歌手がトップアイドルで、アニメ映画で「1000年女王」がやっていたような時代の話である。この記憶は確かだ――パン屋で「1000年女王」のキャンペーンをやっていたのだから。某歌手がトップアイドルだった証拠となる話は、今はしたくない。
なぜそのベーカリーで売られていた「メロンパン」にはジャムがサンドされていたのか。先入観を捨ててみれば、妥当な措置である。メロンパンはパサパサしがちである。そして量は多くなくていいのだが、ジャムがサンドしてあると美味しい。
ちなみに、このメロンパンはジャムを使わずに食べた。というより、メロンパンにジャムが挟んでなければ、そのまま食べるのが私である。だって、面倒じゃん。ジャムは机の上にあったので、一緒に写しただけであった。
あのホラ、国道ずっと行くとさ。M市K町からH町方面に行くと左手にスーパーがある十字路がさ。右に行くと公園だけど、左折した先にそのパン屋があったんだよね。右折しての公園にはさ、工事現場で見る仮設トイレみたいに個室ひとつのみ独立してる公衆トイレがあって、ドアを開けて入ったその壁にね、「聖子の【ある部位の俗称】なめたい」って落書きされてて、おれその俗称を知らなくて、意味が分からないまま覚えてた。なんかきっと、子どもながら直感的に何か性的なニュアンスを感じ取っていたような気がする。公衆便所の壁に書きつける劣情って、まあ大体エッチなことだったりするものなんだろうな、それは分かる。しかしそのせいで、パン屋に向かう交差点を思い出すときに、その壁の落書きがセットで浮かぶ。それでね。
この前、Google Map で見たら、その公園がまだあって。そのトイレも当時のままだったんですよ。50年近く前のまま公園のトイレがあるなんて衝撃で、だって残ってるとも思ってなかったしね。もう衝撃で。というより、怖かった。めちゃくちゃ怖かった。おれ51なのに、あれから長い時間が経ったのに、あちこち転々として家族なんかもう修復不可能なのに、過去の時間がそこだけ保存されたように、あの小さな便所だけそのまま残ってるなんて。
で、今の関心事は、落書きが壁にそのまま残っているか、なんだけど。
自分で見に行く勇気なんてないさ。ないない。怖すぎる。
ドアノブなんか、絶対に触りたくないさ。中にあるのは異空間なんだろ?
誰か、代わりに見て来てもらえないかなって思ったりする。
落書きはあるか。――実は、おれ自身はそれさえ知りたくない。さすがに壁は塗り直されてるよな。50年間何もされてないなんてあり得ないよな?
「でも、もしかしたら」と考えると、怖い。書いたやつ、今きっと60代だぜ。過去を清算すべきはそいつなのに、何だよこの追い詰められる気分は。
あなたは見つけられるはずさ。ヒント、そのトイレはサイロみたいな形なんだ。小さなサイロ。そしてドア一枚の先には、便器がひとつあるきりなんだ。
ちょっと投稿怪談っぽく書いてみたのですが……これ、他の人には全く怖くないんだろうなあ……どうなんだろ。先ほど Google Map で再確認しましたところ、当該トイレにつきましては建て替えられておりました。「何で当時のままなんだ?」と恐怖した日からこれを書くまでの数年に状況は変わっていたようです。あの落書き、書いた人がいらっしゃいましたらご連絡下さい。会いたいです。どんな人生を送って来られたのか(お聞きしてよい範囲で)ぜひ知りたいです。秘密厳守します。あなたの爆発的な衝動、壁に書きつけずにいられなかった欲望、それが長年、心にありました。あなたはあの空間にいたし、私はなぜあなたがそれを書かずにいられなくて、あの壁一枚で外界と隔てられているだけの空間であなたが何をしていたか理解できる年齢になってからは、私にも共犯のような思いがありました。共に生きてきたようなものです。そろそろ会いませんか。あなたもたぶん、自分の過去を目撃した者に会いたいはずだ。落書きは誰かに見られることを前提に書くのです。あなたは自分の欲望を知られたかったし、誰が知ったのか確認したい。そうじゃないでしょうか。あなたが会ってくれるなら、あの場所に行くよ。
ここまで書けばさ、おれが決してメロンパンにいちごジャムをつけて食べない理由が分かるだろ。ホントは面倒だからじゃないんだよ。味覚は記憶を呼び覚ます。モニタに広がる画像であの便所のにおいを思い出したように、いちごジャムをサンドしたメロンパンの味は、おれを過去に連れて行ってしまうんだ。そんなことはよく起こるんだ。何人かはもう戻って来られない。おれも戻って来られない気がするんだ。だからいつでも使えるようにジャムを職場のデスクに用意しておきながら、衝動に駆られながらもまだそれをせずにいられている自分を確認してるんだよ。昨日はやらずに済んだ。でも今この瞬間もおれはメロンパンにいちごジャムを塗りたい。その思いは日に日に強くなっていて、おれのデスクにはメロンパンがうずたかく積まれていて、おれ何年もメロンパンしか食ってなくて、きっと明日だ明日なんだよ。
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