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2020年からの500円玉貯金

 10年間くらいずっと500円玉貯金をしている。

 500円玉を貯金し始めたきっかけは、パートナーとの関係が安定したと感じ、もし同性婚の法制化があったら籍を入れて一緒に暮らそうと思ったのだった。ただ区役所に婚姻届と呼ばれるあの紙――法律婚できる人たちが私の夢がたりに「紙切れ一枚だよ」と吐き捨てたやつ――を二人で提出して、いつものスーパーに寄っていつもよりちょっと贅沢なものを買って、家に帰って一緒に食べるだけ。きっと感じたことがない安心感に、それだけで充分に満たされるだろうことが思われた。それ以上のものはない。貯金箱がいっぱいになったら札にして、みたいなことを続けてた。晩年一人暮らしする母に仕送りしながら、それでも絶対に500円玉は使わず貯金していく。そのルールを徹底すると、微々たる増え方であれ、着実に貯まるのだった。

 母の発病と闘病で、口座の残高もその500円玉貯金も全部なくなった。ワンオペで東京から毎週通って向こうでレンタカー借りて、という生活を始めると、それだけは残しておきたかった金も全て使うしかなかった。
 「あなたには何もしてやらなかった」
 「何言ってんの。前に金がなかった時、20万用立ててくれたでしょ。あれまだ返したつもりないからね」
 「ありがとう」
 何でもするつもりだった。あの日々が幸福じゃなかったなんて言わない。今でもあの時間が続いていたらよかったと本気で思う。

 でも母は宣告された余命の5分の1も待たずに死んでしまった。それから、また500円玉貯金が貯まり始めた。数えてみた。4年間で28万円か。

バイバイ。 

 使っていない口座に入れた。これはこれで欲しい人がいるようで、他のと合わせて持っていくらしい。口座に入れたのはその準備だ。さあまた空っぽか。虚しさはある。だが貯金が空っぽになることだけ見るのでもない。管理のため空き家になった母の家に通い、ガソリン入れたり飯食ったりするたびに500円玉を貯金した「あれから」の日々を、どう考えるかは自分次第だ。愚直すぎた愚か者と言う人もいるだろう。よく頑張ったと言う人もいるだろう。――だがそれらとは別に、自分が人生に見出す意味もあるのだ。

 たとえば、母親から聞いた「ありがとう」を胸に残せる人生、とか。
 


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