「ご感想への返信2023」No.04
「分かったような発言」をしない方がいい理由
授業のおさらいとして、「分かったような発言をしない方がいい」理由は、――「これは共感ポーズの限界」という話でもあるのですが――取り繕いは見破られる(医療者患者間に築かれていたラポールを崩してしまう)からです。医療者が患者を観察するように、患者も医療者を観察している。話のどこで瞬きしたか。笑顔が消えたか。身を引いたか。呼吸が乱れたか。声音が変わったか。――そうしたノンバーバルな反応は制御しきれるものではないし、患者もおそらく慣れている。しかし言葉はちがいます。分かっていないのに「分かったように振舞った」のは不信につながる。そして共感(問題は同化なので、この文脈上も同化の意味ですが)にも限界はある。とても「同化」なんてできない状態の患者には必ず出会う。「絶対に共感できないレベルの」想像を絶する人生を送っている人は必ずいます。その時どうするの、ひとつしかない武器(同化)、使えないじゃん、って思うんですね。患者の人生を前にどんな言葉も出なくなった時、何ができるか。相手はあなたが「分かる!」と言えないことも分かっています。
その時には「分からない(でも分かりたい)」と言うしかないのです。
共感的な空気を作るために/また寄り添うために「分かる」と言わなければならないと思うことに始まって、いつしか自らの無知を認められなくなることは(全ての支援職にある者に)非常によく起こるのです。「そこについては無知である」と言えなくなる。あなたは性的少数者についてのプロフェッショナルである必要はない、高次な訓練を経た医療者であればいい。患者の話をさえぎってまで「私にはゲイの友達がいる」と宣言する必要はない。そんな言葉で「偏見のなさ」を証明しなくていい(そもそもゲイの友達がいる事実が何を証明するでしょうか?)。患者に困りごとがないか、言えずにいないか常に気にかけていることを、患者に伝えられればいいのです。
「分からない」と認め「分かりたい」ことを伝える
私は講義で「これを言っておけばOK」という「魔法の言葉」はない、と言い続けて来ました。「習った言葉」は応用できない。医療者と患者の関係では形骸化したルーティンが修復できない不信を生むこともある。だから場面によって「分からない(けど)」と言えることも大事だよ、と話すのです。「分からない(けど)分かりたいと本当に思っている。だから話して下さい」と本心から言うなら、それは誠実な態度です。
分かるところは「分かる」と言ってよい
しかしもちろん、分かるところは「分かる」と言ってよいのです。講義のスライドに書いたように、患者は未知の世界をあなたに開くが、あなたも無知ではない。あなたは孤独について、痛みについて、愛情について、喜びについて知っていて、患者と(本来の意味での)「共感」ができる。分かち合える。そうじゃないでしょうか。
アクトアウトについて
これは講義では言及する時間がありませんでしたが、病院に限らずどのような支援の場においても、支援者に対して試し行動などをする被支援者は必ずいます。それは別の講義で触れているでしょうから大丈夫だと思いますが、自分の心を守りつつ(暴言があったら一度その場を離れましょう)、患者が環境に安心し慣れるように、チームで当たって下さい。虐げられていた人にとっては、その過酷な環境こそが揺りかごなのです。泣いても誰も顧みないことが、見慣れた馴染み深い環境なのです。「こっちの方が安心でしょう?」と私たちは思うけれども、それは私たちが見慣れているから思うこと。おそらく性的少数者も同じで、最初は疑う。トランスジェンダーの患者が受付や待合室で感じているのは恐怖や不安、居心地の悪さです(感想の文中に恥じらいとありますが恥じらいではないでしょう)。私たちがお互い分かっているように、まだ病院はそれを払拭する準備ができていない。安全はあなたが完成させるものです。
>> 「最初から最後まで興味深かった」
ありがとう。励みに今後も頑張れます。