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「アシンメトリー」嫌いで大好きな歌
この歌の、歌詞のこの一節がおれ大嫌いなんだよね。
ふざけんなって思う。
半分に割った赤いリンゴの イビツな方をぼくがもらうよ
二人はそれで たいがいうまくいく
割るんじゃなくて切れよ。……いやそこじゃなくて。
ハイハイって話を聞いて大変だったねって頭ポンポンして、そういう役回りでいいです、それで上手く行くんだからってさ、「バカにすんな」って思うんだよね。自分が一方的に譲っているって、どれだけ傲慢なんだ。
もちろんね、そういう関係性を歓迎する人もいるんだろうけど。一方的に愛され許される役割が心地良い人もいるのだろうけれど。
問題は、相手からの愛情をカウントしない態度だ。自分が受け取っているものを見ない態度だ。大人が甘えるのは思いやりだ、愚痴を言うのも叫ぶのも、相手の耐性を考えて、一手も二手も先を読んでやらなきゃダメなことだ。そこの信頼がないんなら、甘えることなどできなくなる。そこを誤解されちゃもう甘えられなくなるんだ。
でも、同時におれはこの歌が、男のしょうもなさを言い当てているこの歌が、すごいなと思っている。スガシカオすげえなって。スガシカオはそんな相手の気持ちが見えない「分かり合えなさ」を歌っているのだ。ズレてるし分かり合えないかもしれない「ふたり」の在り方を歌っているのだ。
きっとぼくらの明日なんて ヤミでも光でもなく
ああ そこにぼくと君がいるだけで
いつでも心の色なんて にじんでぼやけてしまうから
そう、だから何度も ぼくは言葉で確かめる
ここにはひとつの回答として、ある向き合い方が示される。
「何度も君のその手を確かめる」
「何度もぼくは言葉で確かめる」
どうしたって分かり合えないのかもしれない、それでも
「そこにぼくと君がいればいい」
と。「そこにぼくと君が」いる明日のため続ける、分かろうとする努力。
でもたとえ分かり合えなくても共にいたいと、おそらくそこまでがこの歌で。だから、おれはこの歌がとても好きなのだ。
「俺が我慢すればいいんでしょ、ああ男はつれえわ、でもいいんだよお姫サマ」という歌だと思って、陶然と歌っちゃっている男は問題だろう。たぶん我慢しているつもりで、相手に我慢させてるんだよね。大人の「甘える」はほとんど「甘えさせる」と同義である――そうでなければならない。
それを分からない大人には、甘える資格がないんだよねえ。相手を甘やかすこともできないのだ。若い頃に読んだ山田詠美の小説に、そんなことがもっとスッキリ書いてあったな。
なんの定めか、男と取っ組み合う人生なもので、おれは男だけど男を俯瞰している。役割を固定してしまう関係性もあるけど、そんなの不自由なだけだ。でもやっぱ、若いころはね、関係性を固定したい人が寄って来ることありましたよね。
「お父さんだと思ってくれていいから」
「あ父親はいるんで」
「じゃ、お兄ちゃんって呼んでほしい」
「兄もいますんで。会ったことねえけど」
「……お前みたいの従わせたいってのはあるんだけど」
「おれめちゃくちゃ主人を選ぶんでね」
「チュールあげよっか」
「わん!」