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小林版『犬神家の一族』について(ちょっとネタバレあり)

何かと話題な小林靖子版『犬神家の一族』。新解釈が提示され、ラスト10分でとんでもないどんでん返しがあると聞いて居ても立ってもおられず、最初は観るつもりは無かったのですが、NHKオンデマンドで前半後半一気に観てしまいました。

確かに、ラスト20分までは原作や従来のクラッシック『犬神家の一族』と変わらない道具立て、シナリオでした。ただ、役者というか、登場人物の性格付けが従来と違って面白かったです。特に古館弁護士と最初の被害者の若林さん、そして那須神宮の宮司さん、あとは、何気に猿蔵の印象もかなり今までとは違うものでした。

そして、ラストの謎解き。松子夫人が服毒自殺をするところまでは、ほぼ従来と同じ。そして、その後。

なるほどなぁ、と思いました。でも、一方でこの解釈は実は、原作がとても大事にしていること、もっと言えば横溝正史の推理小説全体の世界観を壊しかねない、ギリギリのラインなのではないかと思いました。

横溝正史の小説は、私は実は本格ミステリーとしては、ちょっと異端に属するものだと思っています。平たく言うと本格ミステリーは全てのデータが読者に明示され、登場人物が読者が腹の落ちる合理的選択をすること(あるいは非合理であることに合理的理由があること)が前提となります(これは異論もあるかと思います。私の解釈だとお考えください)。その点、横溝正史の小説は、本格ミステリーと定義するには情緒に頼るところが多いのです。金田一耕助を除く登場人物は時に非合理な行動をするのですが、その合理的理由が情緒的なもの(親子の愛や男女の愛など)であることがほとんどなのです。それがまた、横溝正史の小説の良さであり、あの日本的な何とも言えない湿気の高い作風に繋がっているので、私は大好きです。

今回の小林さんのシナリオはそこに敢えて疑問符を投げ掛けたものなのかも知れません。真犯人が真に合理的な人間であれば、あのような選択肢をするだろうか? 戦争に従軍した人たちは究極の合理的行動を取ることを求められます。それは、自分の命を最優先するという究極の選択です(言い換えれば、とにかく生き残る、ということ)。そこには国家愛や親子の愛情といった建前は一切通用しません。だからこそ、戦争から無事国に帰ってきた人たちは心を病んでしまうことが多いのです。ベトナム戦争しかり、湾岸戦争しかり。そういった究極の合理化に染まった人が、帰国してすぐに親の愛や恋人との愛に馴染めるものだろうか? このドラマの冒頭のシーンが戦場の究極の状況を描写したのも偶然ではないのではないでしょうか。

戦場において非情なまでに合理的になってしまった彼が犯人だとすると、横溝正史の作品のテーマともなっている日本的なウェットな村社会や情緒、どろどろとした人間関係、そういったものを否定することになります。それは、もしかしたら、横溝正史自体の否定に繋がるかも知れません。

私は横溝正史の小説、特に金田一耕助シリーズが最も面白いのは、徹底的にアメリカ的合理主義者である金田一耕助が、日本的などろどろから抜け出られずに因習の虜になってしまった登場人物たちを喝破し、犯人を暴くところにあると思っています。横溝正史は金田一耕助を通して、日本の精神的近代化を図ろうとしているのでは無いかと思うほどにです。それが道具立てや登場人物がどんなに陰惨な状況にあっても、ラストに一抹のすがすがしささえ感じる理由なのではないか。

上記のように見てくると、ラストの「金田一さん、あなたは病気ですよ」の一言は無茶苦茶重くて、深いです。オリジナルの横溝正史の世界観に立てば、それは近代化に抗う前時代の叫びであり、私の仮説に立てば、それは戦争が生んだ合理的な連続殺人犯による、同じく合理性の極みにある近代化の旗手たる金田一耕助に対する最大の皮肉であり、侮辱に他なりません。

その意味でも、ここで犯人に対峙する金田一耕助は、是非シリーズ第一作『獄門島』の長谷川金田一であってほしかった。了然和尚との間で交わされる、それこそ発狂したかのような近代と前時代の激しい衝突。そしてこの『犬神家の一族』のラストで展開される、恐ろしいまでに静謐な合理性と近代性同士の衝突。この対比を考えると、『獄門島』の彼こそ、この最大にして最高の侮辱の言葉を受けるに足る金田一耕助だったのでは無いでしょうか。


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