写真家、というか写真を撮る人の心構え的なつぶやき
こんにちは。
しばらく投稿が滞ってしまいました。
実は色々と書いてはいるのですが、書いては保存、書いては保存と記事が完成することなく下書きフォルダばかりが増えています。
なので、ちょっとしたことでも備忘録としてnoteに残していこうと思います。
ということで主にツイッターでつぶやいて「お、これいいな」と我ながら思ったことなどを「つぶやき」として書いていきます。
こちら、ある好きな写真家さんが"カメラの性能が向上することによって誰でもきれいな写真は撮れるようになるだろう。そのような世界で写真家はAIでは生み出せないような自分の頭の中のものを映像化していく事がより必要になっていくだろう"というツイートを見て思ったことです。
AIは素晴らしくて、昔の色のない写真に当時の色を再現させる、なんてことまでしてくれるようになりました。肌補正はもちろん、色再現においてもプログラムの解釈によって生み出されています。ゆがみツールや合成など様々な加工があります。写メでもプリクラでも、コンデジでも一眼レフでも基本的に補正のない写真ってないと思います。そもそも論で言えば無加工の写真というものは、写真が世に生まれてから一度も存在していないとも言えます。
企業が用意した「より好ましい」状態をモニターや印画紙などに出力しているに過ぎません。ネガティブな意図なしに、きっと「より好ましい」ものが取捨選択され続けているし、続いていくのがある意味自然なのでしょう。
では、より好ましい状態に加工された写真には何が写っているのでしょうか?
加工された質感、整えられた肌や輪郭、用意された色、組み合わされた素材、それらの総体としての写真は偽りかと言えばいのようなことはなく、きっと何らかの意図を持って生み出されたのだと思います。
そう考えたときに以前書いた記事を思い出し、そして冒頭のツイートに繋がっていきました。写真家として何らかの意図をもって写真を提示するとしたら、それは何かしらの"真"を見つけて掘り下げ、さらには解釈をして作品にしていくこと、そしてその過程なのではいでしょうか。
そしてこの行為は個々人の人生の文脈上で生まれるオリジナルのもので、AIでは自発的に行えないことなのかなと思いました。
ということで、心構えというと言葉が大きいですが、何かを撮るときにその何かに対して感じた何か(ややこしいですね)に自覚的でありたいという話でした。