写真に真実は写ります。
こんにちは。主語を大きくしすぎると文章が破綻するよと学んだまさむーです。
学んだ結果、このようなタイトルとなってしまった学習能力のなさに我ながら呆れるばかりです。
それでも書きます。
写真に真実は写ります。
真実はあります!
なんでこんな話をしてるかというと、先日からいくつかの写真展示にお邪魔して作家皆様の作品に触れてきました。その中での出来事でこのような貴重なお話をいただきました。
「写真は真実を写すと書くけどストレートフォトだけが写真じゃないのだ」
「写真は真実を写すと書くけど実際にはフィルムの時代から画像は編集されているのだ」
「日本では真実を写すと書いて写真だけど、英語では光で描くと書いてフォトグラフなのだ」
「写真のコンテストはカメラメーカー主催のものが主で、描写などカメラの性能を引き出すことを主目的としているのだ」
「海外ではストレートフォト以外の写真が認められており絵画展などでも評価される事例もあるのだ」
「海外では写真もアートとして認められているが、日本ではアートとしての市場は開拓されていないのだ」
ざっくり印象に残ってるのはこんな感じ。
確かにその展示会場にはひと目見ただけでは写真とは思えないような作品がたくさん並んでいました。油彩のように見えたり、着物の柄を切り抜いて額装したように見えたり、合成しているのかと思いきや実際に不思議なものを飛ばせて撮影していたり、写真にイラストを重ねたり、フォトショで複数レイヤーした写真を消しゴムツールなどで削りながら絵にしたものだったり、紙に蝋を染み込ませて不思議な質感を作り出したり。
とても新鮮で自由な発想で取り組む制作っていいなと思いました。
が、どうしてもひっかるのが「真実を写すと書いて写真って言われてるけど」のくだり。写真に親でも殺されたのだろうかと思うほどの日本語の「写真(ストレートフォト)」嫌いに、写真という言葉が好きな僕は冷静に険しい表情をするばかりでした。
僕は技法は自由であっていいと思っています。展示の仕方も会場のルールや共同出展者に迷惑にならなければOKと思っています。僕自身、過去に展示した作品は触れちゃいけない写真にあえて触れさせるものであったり、額縁を斜めにかけてみたりというものでした。それなりに首を傾げられましたが、それでもやりたい事をやって一部の方には共感いただけました。
話を戻すと、「あなたはその技法を使って何を表現したかったのか」になります。
その写真では何を表現したくて何のどこを選び、機材や加工をどのように扱うことで本来表現したかったものにアプローチしたのか。この「何」って写真の真の部分じゃないのかなって僕は思うのです。それはその写真を撮ることに至った作者それぞれの物語でもあります。
だから僕は「写真は真実を写すって言うけど英語では光で描くって書いて」のような話をされるときに「あえてその方法を選んだことで描こうとした本質の部分に興味が湧いてくるのです。自由な技法は表現のゴールではなく、求める表現に到達するために必要なツールだと思うからです。
そもそも個々まで書いておいてなんですが、写真が真実を写すかという話とフォトグラフだから光画と書くべきだ論みたいのって話が噛み合わないと思います。
自分で書いてみて妙にしっくりきた例えのですが、エビを油で揚げて美味しくいただくことが本質であるときに、「日本では天ぷら以外みとめられてない、海外ではフライヤフリッターが主流なのに」って話をしても仕方ないと思うんです。
なので、僕は写真には「真」の部分が写っていると考えます。それは真実という大きなテーマもあれば「姿」という当初の意味でもあります。シャッターを切るに至った経緯は遡ればその人の人生をたどることになると思いますし、思い描いた表現のためには技法は大きな犯罪でもない限りは自由であると思います。
ということで写真には真実が写っているのかという話でした。人によって考え方は様々で、やはり真実は写らないという意見もあると思いますし、それを正しい間違っていると異白黒つけようというつもりもありません。
僕が写真を撮る活動をする際にはこのような考えのもとで取り組んでいますという話でした。