なぜ君はつかえないのか?

そんなの簡単、
君が「使えない」のは君が「仕えない」からだ。

「つかふ」(使ふ・仕ふ)という語はそもそもが、「付き」と「合ふ」が結合してできた語だといわれる。
(中略)
「付き」とは「相手に密着する」こと、「合う」とは「相手の重みや心の動きに合わせる」こと。何のことはない、「つかふ」とは「つきあい」のことなのだ。
「つきあう」といえば、現在ではすぐに男女間の交際を思い浮かべるが、相手が人であれ物であれ、それを使うなかには、相手に合わせる、そのことで自分も変化してゆくということが、この語に本質的なこととして含まれている。だから、相手の、対象の、ありようというものが大きな意味をもつ。
 とりわけ「仕ふ」の場合、「奉仕」がそうであるように、相手のほうにイニシアティヴが移る。「仕ふ」とは相手の意向を尊重し、それに従うこと、それにおのれを合わせることである。相手が倒れないように下支えるとき、あるいは横で支えるときには、「支え」と書く。そう、つっかえ棒の「つかえ」である。

鷲田清一『つかふ―使用論ノート』、小学館、2021年、14-15頁

「使える」人間とは「仕える」人間である。

たとえば、車を「使える」ようになるには、マニュアルどおりの操作と、一台一台の「個性」に応じた運転技術がもとめられる。
言うことを聞かないからといって怒鳴ったり殴ったりしても、けっして「使いもの」にはならない。
そして、それを意のままに駆使しようとすればするほど、君はほとんど相手の「奴隷」になるだろう。

「仕える」人間だけが「使える」人間になれる。


すなわち、「つかう」には犠牲がともなう。
車の運転中は身体を拘束され、自由に立ったり寝たり漫画を読んだりすることは(今のところ)許されていない。

自由を犠牲にしてまでなぜ「つかう」のか。
もちろん、自由になるためである。

車を使える人はそうでない人よりも行動範囲の自由度が高い。
パソコンでも外国語でもそれこそ他人であっても、「つかえる」ことによって、できることの自由度は大きくひろがる。

すこし前にも書いたはずだ。
自由が欲しければ、まず自由を捧げよ、
って。


だけど、自由をめざしたはずがかえって不自由になってる、というようなことがよくある。
それは、目的が「使う」から「持つ」になったときだ。

「持つ」ことは、それをいつでも「使える」ようになることだと思うかもしれない。
それが罠なんだ。

単純に考えても、なにかを手に持っている人間は(それを使わないのなら)、手ぶらの人間よりも身動きが制限される。

それが重さのない情報やステータスであっても実はおなじで、蓄えれば蓄えるほど、自由からは遠のいていく。
たとえば知識を「得る」のに執着する人は、せっかく知り得たノウハウを活かさないとと選択の幅が狭まったり、まだまだ勉強不足だからと行動が鈍くなったりする。

「持つ」とは「依存」だ。
「有るに越したことはない」は得てして「無いと困る」になる。
そうなるともう自由とはいえない。

お金「持ち」は、その定義からしてお金を使えない。
資産運用とかで使ってるじゃないかと思うかもしれないけど、あれはどっちかっていうとお金をべつの形に「持ち替えてる」だけだ。
そう、彼らはお金を失いたく(=使いたく)ないのだ。

そもそも、必ずしも「持つ」イコールそれを自由に「使える」というわけではない。
たとえば、僕はチェーンソーを持ってるけど、ところ構わずそれを使ったりしたら大変なことになる。
所有権というのは、自分が使う権利ではなく、他人がそれを使えなくするってだけの権利にすぎない。

それに「持つ」には、権利のほかに義務がついてまわる。
誰かが僕のチェーンソーを使って人を殺そうものなら、僕の管理責任が問われることになる。


だから必要なのは、所有権というよりもアクセス権だ。

研究者には二種類いる。自分の功績を後生大事に抱えこむタイプと、それを「使って」新たな未知にアクセスしようとするタイプだ。
男には二種類いる。恋人に対して、誰にも触らせない占有権があると勘違いしてる馬鹿と、「仕える」ことで誰も知りえない彼女の素顔に触れようとするタイプだ。

そして、権利だけあって義務はない、
そんなポジションに身をおくことだ。

君の雇い主には、君を使える権利とともに使う義務がある。
一方の君には、彼に仕える権利はあるけど義務はない。
あれ?君のほうが自由だと思わないか?


え?そもそも他人に使われたくない?
うーむ、「使われる」ことは「仕われる」ことでもあるという話をしてたんだけど、まあいいや。
だったら、こっちが使ってやればいいだけじゃないか。

たとえば、信号機があったとする。
君は、道を渡るのにそれを「使う」ことができる。
それがわかってない人は、まわりに猫一匹いないような交差点でも信号の「奴隷」になったりしてるけど、そういう人は、点滅してるからって信号なんかに走らされたり、青は安全だなんて勘違いして歩きスマホで車に轢かれたりする。
そのあげく、私が不自由なのは信号のせいだなんて言いだすけど、それは自分が「つかえない」人間ですってことをただ告白してるだけだよ。

システムは「従う」ためにあるんじゃない。
なんでも「つかえる」人間だけが、むこうがわにアクセスできるんだ。


おさらいしておくと、
「使える」ようになるには「仕える」必要がある。

学校に仕えたくなかった君は、
「そんなものが将来なんに使えるのか」
と反発したことがあるかもしれない。

僕が一番好きなそれに対する切り返しは、
「そんなやつが将来なんに使えるのか」
ってやつだ。


そして、「つかえる」ことこそは自由への扉だ。

自由を「手に入れる」ことに執着する者は、「自分はつねに自由でなければならない」「やりたいこと以外はやらない」みたいな不自由な発想に囚われて、生きる世界を自ら狭めてゆく。
一方、未知なる自由にアクセスすることができるのは、「仕える」ことに躊躇のない人間、惜しげもなく自由を「使える」人間だけである。

それが愚者と賢者とをへだてる壁なのだが、それはけっして厚いものではない。

最後に覚えておくといい。
「賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。」
(オルテガ・イ・ガセット)

おひねりはここやで〜