食っていくための「資本論」

テクストは読者を安心させることではなく、不安にさせるために書かれる。なぜなら、「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているからである。

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』、せりか書房、57頁

田舎では食えない。
林業では食えない。

これまで何度耳にしたことか。

だったらどうする?

薪、木工、アロマオイル?
山菜、キノコ、ジビエ?
あるいは、カフェ、ゲストハウス、キャンプ場?
はたまた、ブログ、YouTube、SNS、、、?

身のまわりのあらゆる資源を売れ!
持てる知識や能力をお金に換えろ!
やりたいこと、得意なことを収益化せよ!

とにかく、「商品をつくれ!!」

そんなに書くのが好きなら、このnoteだって(もちろんもっと有用なことを書いて)有料化すればええやん!

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、個々の商品は、その富の基本形態として現れる。

いわずと知れたマルクス『資本論』の冒頭。

「巨大な商品の集まり」に四方を囲まれ、そのひとつひとつが絶えず差し迫ってくる、「オレを欲望しろ、お前にはオレが欠けている」と。

そんな世界から逃げてきたはずだった。
だが、行き着いた先で、その亡霊は、ぼくを待ち構えていたのである。


「食っていく」とはどういうことか?

商品を売る→金を稼ぐ→商品を買う

これほど商品がありふれた世界では、そこから逃れることはできないようである(それが全てではないにしても)。

それは受け入れよう。

だが、ちょっと待ってほしい。

マルクスを引くまでもなく、商品を生みだして動かしているのは「資本」だ、ということになっている。

つまり、どれだけ商品が現実を支配しているように見えようと、それを可能にしているのは、あくまで資本の力のはずである。

どれだけ学歴が重要視されようと、実際の現場で機能するのは、「学ぶ力」、即ち「知性の運動」でしかないのと同じように、

商品とは、資本の運動における媒介であり、前提であり、そして結果にすぎない。

そこまでは問題ではない。
問題は、我々は資本なんぞ持っていない、この身ひとつ以外に資産を持たない「自由な労働者」であるということである。

一体どうやって商品を生みだせというのだろうか。


ここが分かれ道だ。

即ち、自分自身が商品になるか、あるいは、資本になるか、である。


価値としては、商品は等価物である。等価物としては、商品のすべての自然的性質は商品において消失している。

K. マルクス『経済学批判要綱』、大月書店、第1分冊、62頁

「資格」者とは、「いっさいの個性と特性が否定され消失している一つの一般者」であるのだ。この一般者は、誰とでも向かい合って交渉することができるが、相手の実在の顔をもはや見ない、つまり人格的特殊性によって規定・制約されることから自由になって、交換可能な社会的交通をしているだけになる。

山本哲士『物象化論と資本パワー』、文化科学高等研究院出版局、199頁

あるものが「商品」となるためには、人々のあいだで「等価交換」されなければならない。

「等価」ということは、さまざまなもののそれぞれの価値が、ある単一の尺度で計量される必要がある。
そして、それらが「交換」されるためには、それを手に入れることでどんな「ベネフィット」があるのかを、誰にでも理解できるように示されていなければならない。
商品とは、つまり、「誰でもその有用性や価値がわかるもの」でなければならない。

自分自身が商品になる、ということは、その「既知の価値」に自ら還元される、ということを意味する。
彼は、既成の商品規格に準じて自身のスペックを表示し、他の商品と並べられ、比較され、値札を貼られる。

より高値で買い取ってもらおうと思えば、当然「付加価値」が必要となる。
つまり彼は、「誰でもその価値がわかる」知識や能力を、できるだけ多く身につけなければならない。


既知の所有

それが、商品たろうとする彼のむかうところである。

彼が勉強するのは、学歴や資格を得るためであり、
外国語を習得するのは、自国内でのプレゼンスを高めるためであり、
筋トレに勤しむのは、数値としての筋量を上げるためであり、
婚活で狙うのは、自分と同じ価値観のパートナーであり、
流行を追いインフルエンサーに倣うのは、勝ち馬に乗じて「成功」を掴むためであり、
安定を望み計画的に生きるのは、未来を既知にしてしまうためである。


彼は常にある種の欠落感に灼かれている。

物質的豊かさ、社会的成功、悠々自適な生活、、、
ひとつ「既知の価値」を手にいれるやいなや、まだ手にしていない次なる「既知の価値」に向かって、

彼はその欲望を止めることができない。


資本は、けっして単純な関係ではなくて、一つの過程であり、そうした過程のさまざまな契機においてそれはつねに資本なのである。

マルクス、前掲書、第2分冊、179頁

資本パワーとは実体ではない、関係が働かせる力である、物事を可能にする力である、その動きである。

山本、前掲書、149頁


さて、「壱万円」と刻字された紙切れがそれだけでは紙幣にならないように、ただのお金をいくらかき集めようと、それは資本ではない。

資本は利潤を生みださなければならない。すなわち、かき集められたお金は「運用」されなければならない。

運用された貨幣はまず、生産手段や労働力などの商品と交換される。(G−W)
次の過程で、それら商品は生産的に消費される。つまり、労働力を消耗して、原材料は無くなり、道具や機械は損耗し、かわりに新たな有用性をもつ物が生みだされる。(W−W')
それが商品として流通し、そしてめでたく、利潤を含んだかたちで貨幣に復帰する。(W'−G')

だが、その一連で価値増殖が起こる(G−G')ためには、生産された「新たな有用性」が、「未だ知られざる価値」として人々に認知され、今まで存在していなかった「新たな消費」をも生産する必要がある。

商品の「等価交換」からはその定義上「価値増殖」は起こり得ない。
それが起こるのは、資本の運動過程で「未知の価値」が生み出されるからである。
そして「未知の価値」を生みだす運動それ自体のことを資本と呼ぶのである。

(そして、商品という「既知の価値」の交換から「未知の価値」がいかに生みだされるのかを「労働」から明らかにしようとしたのがマルクス『資本論』にほかならない。)


だから、資本とは貨幣だけに限った話ではない。

自然も、文化も、インフラも、我々ひとりひとりの知識や能力も、「資の本」となる限りは資本である。
そのためにはもちろん、「運用」されなければならない。
つまり、人々のあいだで活発に交換され、生産的に消費され、「新たな有用性」を生みださなければならない。
反対に、占有・退蔵され、自己利益のために消費されれば、その瞬間それは資本から商品に成り下がる。

つまり、それらを「所有」するのではなく、それらを「使う」ことによって、既存の枠組みの外に到達しようと運動する者だけが、自らをも資本となることができるのである。


未知へのアクセス

それが、資本たろうとする彼のむかうところである。

彼が勉強するのは、自らの知的境位を超えた世界をのぞくためであり、
外国語を習得するのは、海の向こうにある異文化にふれるためであり、
修行に励むうちに、今ある度量衡では計測不可能な潜在能力を開花させてしまい、
理解不能なパートナーの価値観にも耳を傾け、
古典を読み師に就くのは、その叡智にふれ、「師との『対話的運動』を通じて、これまでも、そしてこれから先も『彼以外の誰によっても語られることのない』言葉を発するため」(内田、前掲書、119頁)であり、
今為すべきことに集中するのは、未来を白紙のままにしておくためである。


彼は常にある種の欠落感に灼かれている。

「誰もその有用性や価値を知らないもの」どころか、「『誰もその有用性や価値を知らない』ということさえ未だ誰も知らないもの」、即ち「未知の未知」に向かって、

彼はその欲動を止めることができない。



ようやく本題である。

食っていくためには、商品が必要である。
選ぶべき選択肢はふたつ。
自らが商品となって資本に踊らされるか、それとも、資本となって資本と共に踊るか。

さて、資本になるとはどういうことなのか。

貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない。

岩井克人『貨幣論』、筑摩書房、97頁

それと同様、資本が資本であるのは、それが現に資本として運動しているからでしかない。

別の言い方をすれば、資本だから運動するのではなく、運動しているその「動き」こそが資本なのである。

だから、資本としての人間の価値は、その人間に内在しているのではない。
ましてや、彼のステータスや所有物が、彼に資本としての価値を与えるのではない。

自らが、自らの置かれた場所に於いて、余人を以っては代え難い関係を結び、他の人が引き受けない役割を担い、自分にしかできない仕事を果たし、「なんだか知らないけど食っていけてる」という事実だけが、自らを資本たらしめるのである。


では、資本になるにはどうすればよいのか。

簡単だ。それはね…

…というような入れ知恵を真に受けてはならない。

「学ぶべき(価値が自明の)ことを学ぶ」「経験すべき(価値が自明の)ことを経験する」というのは、言うまでもなく「既知の所有」だからである。

そのような巷に溢れるハウツーに従った瞬間、君は商品への道を突き進むことになる。

「未知へのアクセス」とは、言うなれば、「何を経験させられているのかわからないまま、経験すべき(なんじゃないかなぁという(あくまで)気がする)ことを経験する」ことである。


投資とは、代価を払って「既知の価値」を手にいれることではない(それは商品の購入にすぎない)。
「未知の価値」に向かって、自らの「資」を「投じる」ことである。

故に、「そんなことをしていったい何になるのか」という審問に対して、彼は絶句するほかない。

ただ、苦し紛れに叫ぶのである。

「いいから黙って見ていてくれ」

と。

おひねりはここやで〜