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『ニッカウヰスキー』竹鶴政孝の歩み

こんにちは。飯坂涼平です。

皆さんは、『ニッカウヰスキー』をご存じでしょうか?
日本のウイスキーの歴史は、一人の男とともにあります。
その男が「竹鶴政孝」です。

彼は、「日本人に本物のウイスキーを飲んでもらいたい」その一心で人生のすべてをウイスキーづくりに捧げました。

「万年筆一本で、我が国のウイスキーの秘密を盗んでいった青年がいた」っと後の英国首相に言わしめた竹鶴氏は、ウイスキー誕生の地、スコットランドに乗り込み、本格ウイスキーの製法技術を持ち帰りました。


竹鶴政孝という男
生まれは広島県にある醸造家に産まれ、摂津酒造に入社しました。社長である阿部喜兵衛に認められスコットランドへ留学に行きました。留学先で「ウイスキー並びに酒精製造法」を辞書と共に勉強する日々が続きました。しかし、書物だけの勉強ではウイスキーをつくることはできません。焦りを感じる日々を過ごしていた時、熱意が通じて蒸留所での実地研修のチャンスを掴み取りました。細部までは明らかにされないものの、竹鶴氏の熱意に年老いた職工が蒸溜器のバルブ操作を教えてくれたそうです。

留学先のスコットランドでは竹鶴氏にとって大きな出会いがありました。スコットランド女性のリタです。リタの弟の柔術の教師として一家と楽しく付き合ううちにお互いを認め合うようになっていきました。周囲の猛反対を払いのけ、リタは血族の絆を絶ってまで竹鶴氏に嫁入りしました。竹鶴氏が25歳、リタが23歳の時のことです。

1920年いよいよウイスキーづくりの舞台を日本に移しました。世は第二次世界大戦の恐慌で苦しい時代でした。ウイスキー醸造計画書を作成するも受け入れられず、摂津酒造の阿部のもとを離れる決心をしました。そんなある日、サントリーの前身である寿屋の鳥井信治郎氏が竹鶴氏のもとを訪ねて来ました。鳥井氏はかねてから本格ウイスキーの到来を予見しムーア博士からの推薦で訪ねてきました。

ウイスキーづくりに没頭して6年目で遂に国産第一号となるウイスキー「サントリーウイスキー白札」が誕生したのが1929年のことです。
さらに、理想のウイスキーを追い求めて北へと旅立つのです。

北海道は余市市がニッカの前身となる「大日本果汁株式会社」の出発の地となります。リンゴジュースなどの醸造と並行してウイスキーの原酒をつくり始めました。

そして、1940年に『ニッカウヰスキー』は遂に誕生します。スコットランドで磨いた技術やたくさんの人の思いが詰まったウヰスキーが出来上がりました。

是非皆さんもニッカウヰスキーを飲んでみてください。

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