本物を探す旅なんだと思う
「どうしても他人に対して壁を作ってしまう、普段は気にならないが、ふと自覚するタイミングがあって、それに気づくとずっとそれを考えてしまい嫌悪に陥る。」という話を友人からされた、加えて「その壁を作って接している自分が本物の自分なのかわからなくなる」そんなことも言っていた。
「仮に100%違う自分であったとしても、その人ないし、雰囲気を維持しようとした優しさは本物の自分からの物じゃないの?」
そんな質量の無い言葉を並べて、それっぽく屁理屈をこねることは容易だったが、『仮に自分が言われたとして納得できるか?』と思った瞬間、こんなくだらない言葉を送ることが出来なかった。
きっと『いやぁ、そーゆ―ことじゃなくて…』とこれ以上深く話すことを諦めていたと思う。
本物の発言に対して、そんなうすっぺらな嘘はつけなかった。
僕も全くの同類だ。
僕らみたいな人間は不用意に自分の心に近づかれる事をひどく嫌う。だから絶対的な壁作ったり、発言を躱したり、そもそも受け取らなかったりして心を守る。
その中に何が入っているのかはわからない。何か大切なものがあるのかもしれないし、無いのかもしれない、近づいて傷付けられたくないのかもしれない。ただ、そんなことはどうでもいい(たまに「傷付きたくないだけだろ」、「守ってるもの捨てろ」なんて言う無神経な輩が居るが、そもそもの論点がズレるのでここで去ね、さっさと)。
その防壁に嫌悪するということは、”本当は無くしたい”と思っている。
もっと真っ当に繋がっていたい。斜に構えたり、張り付いた笑顔の防壁を作ったりなんかしたくない。
きっと本物の自分で、本物の相手と、本物の繋がりを作りたいんだと思う。
相手にそれを求めてしまうし、自分にも求める、だがそれが返される事は無く、勝手に失望したり、離れたりし、そして自らの傲慢さや不甲斐なさに思い悩む。
果たして本物とは何ぞや?という話になるが、きっと求める何かがあって、それを探す旅なんだと思う。
いや、旅は格好つけすぎか、放浪、彷徨い……、もがき、あがき、こっちの方が腑に落ちる、目的地などなく、ただその場に居たくなくて右往左往している。
"生きづらさ"と言われてピンと来ないが、不器用さや下手くそさには実感がある。気にも止めないようなちっさい石ころにつまずき、そもそもの歩き方がわからなくなってその場から動けなくなったりする、その度に『あぁ〜、頭悪いな〜』って思う。
仮に"生きづらさ"の定義をその事とするならば、それの中にいる人間なのかもしれない。
別にんな事どうでもいいし、認めないがな!個人的には、あくまで客観的意見を尊重して『お前がそう思うならそうなんじゃね~の(適当)』というスタンスだ。
「まぁ、そういうところだよ。」と言われたらぐうの音しか出ない。
ただ、意外にもこのバカで不器用な自分が好きだ、右往左往、たどたどしく生きている自分が好きだ。
別にあってるなんて思ってないし、たぶんあってない方が多い、ただ間違ってはいないと思う、客観的な根拠はまるで無いが、それには何ならかに裏打ちされた自信がある。
自分の好きな自分でありたい、ただそれだけ、、、それだけ。
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