あなたがアートを分からない理由
現代アート=難しくてよくわからないもの。
多くの人が現代アートに対して持っている拒否反応の原因は、パッと見て綺麗でもないし、第一に何が言いたいのか分からないことだと思う。
一方で、そういう人だって好きなアート作品があるとゴッホだったりモネの名前をあげる。
この違いはなんだろう。
ゴッホやモネの書くアートと、現代アート。
ゴッホやモネが分かって、現代アートはよく分からない。
今回は多くの人をアート嫌いにした諸悪の根源であり、現代アートのルーツである人物を取り上げる。
アートは美しくあることをやめた
ゴッホやモネが多くの人の心を動かす理由。
それは見た目の美しさにあると思う。
鮮やかな色と四季や光の様相。
この美しく画面上に描かれた風景は、全て目で見て判断できる情報である。
目で見て、美しいかどうか。
それが多くの人がアートに求めるものだ。
しかし、この目で見て美しいかどうかを基準とするアートを否定する人物が登場した。
これが、今回取り上げるマルセル・デュシャンである。
彼は視覚的な情報のみに依存するアートを「網膜的なアート」として否定し、「アートは概念的であるべきだ」と考えた。
概念的なアートとは、なんなのか。
彼は、作品それ自体(網膜的なもの)よりもアーティストがその作品をどういう理由で作ったのかというコンセプトを重視した。
彼はそれまで重要であった、見た目が美しいかどうかというアートの基準を否定したのだ。
この考えのもと、彼はアートの歴史の中で、一番の問題作を1917年に発表した。
現代アートは目に見えない
それが、この「泉」と名付けられた作品である。
男性用便器をひっくり返し、そこに「R.MUTT」とサインをしただけ。
彼はこの作品を出品料を払えば誰でも展示できる展覧会に作品を発表しようとした(委員会から拒否され、結果的に展示はできなかった)。
この作品、美しいかと言われたら美しいどころか、その真逆。
男性用便器が美しいと思う人などまずいないはずだ。
それは当然で、彼自身もこれを美しいからという理由で作品にしたわけではない。
彼がこの男性用便器を選んだ理由は、もっとも興味がなかったから。
しかし、この最も興味がないものを探すのに彼は何年もの時間をかけ、数万という物の中からこれを選んだという。
つまり、この作品において重要なのは、便器という作品自体ではない。
アーティストであるデュシャンが最も興味のないものを探した結果、便器を選んだという事実が重要なのだ。
ゴッホは、何時間、何日、何ヶ月という時間をかけて一枚の作品に絵の具を乗せて作品を完成させていく。
その時間は筆跡という目に見える形で現れる。
一方でデュシャンの興味のないものを探すという行為は目には見えない。
アーティストの表現活動が網膜的に見えるのか、否か。
これが近代までのアートと、現代アートの大きな違いなのである。
ここで、重要になるのが鑑賞者である、あなたの介入である。
アートを完成させるのは、あなた
ゴッホやモネ、こうしたアーティストの作品を見て鑑賞者ができることと言ったら当時の時代背景に思いを馳せたり、アーティストがどういう思いで描いたのかを慮るくらいである。
なぜなら、画面に全ての事が書いてあるから。
しかし、現代アートは穴埋め問題のようにアーティストの「表現したいこと」が目でみても不完全な状態で私たちの前に現れる。
鑑賞者である私たちのすべきことは、その空欄を埋めていくことだ。
全てが書いてあるわけではない文章を自分の経験や推測で埋めていく。
この作業が現代アートの醍醐味であるし、わからないというのはナンセンスである。
そこには書いていないのだから。
不完全なアートを完全にできるのはアーティストではなく、あなたしかいない。
ただし、答え合わせはない。
それはアーティスト自身も答えを知らない事もあるし、提示もされない。
答えがないのであれば、あなたの出した答えは全て正解になる。
現代アート鑑賞とはそんな懐の広い、全てが正解になるテストだ。