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中村憲剛とわたしの18年

14歳だったわたしがフロサポになって18年。憲剛さんにたくさん助けてもらった、18年間の話。

記憶にないけどもらってた26番のサイン

2003年。それは中村憲剛が川崎フロンターレに入団した年。14歳だった私が本格的にフロンターレサポーターになった年。

小杉で生まれ鹿島田で育った私は、夏は等々力のプールに毎日通い、土日は兄の習い事サッカーを見学しに等々力へ行き、小学校で招待券をもらったら親や兄に連れてかれて等々力へ”遊びに行く”子どもだった。

その頃は、等々力を本拠地にするクラブが変わったことは何となく認識しているレベル。フロンターレっていうチームになったんだぁ、みたいな。

2002年日韓W杯のあと、日本代表を観に行くようになった。スタジアムに足を運ぶことが楽しくなってきた中学2年生になったころ、ふと「近所にあるじゃないか」とフロンターレの存在を思い出す。

当時、中学校のクラスのなかではフロンターレを応援している=ださい、だった。海外サッカーや日本代表、レッズやマリノスや鹿島を好むことがイケていた。最近フロンターレみにいってんだーとサッカー部の男子に話すと、「えっ弱いじゃんつまんそう」とバカにされるぐらい。

でも、サッカーにはまってから観たフロンターレは超面白かった。

ジュニーニョやアウグストのようなブラジル人、毎週、チャリで来て目の前で観れるなんて…しかもみんな顔面偏差値たかいんだが...なにここ幸せじゃん!(笑)となった、2003年GWぐらい。その年にルーキーとして中村憲剛が入団したことは、ほとんど認識していなかった。

私は即買ったフロンターレのユニフォームに、26番のサインをもらっていた。それに気が付いたのは数年前。まじで記憶にないことが正直悔しいけど、たぶん試合後のバス見送りのときにもらったと思われる。

あの頃、周平さんやミノさん、渡辺匠とかにキャーキャーしてる女子中学生だった。たまたま憲剛さんがいたから書いてもらったのでしょう。その後、(一方的に)18年も苦楽を共にするとはつゆしらず……

川崎市民でよかったYO

2003年末。昇格を逃して号泣してつけま取れてる画がJリーグタイムのエンドロール中にドアップで垂れ流されたのち、絶対昇格すると意気込んだ2004年。祖父母に「受験の参考書を買うから」と金をせびりつつ、歳を逆サバして蕎麦屋でバイト(良い子はマネしないでね)しながら遠征費を稼ぎ、ほぼ全試合通っていた。昇格が決まった水戸戦。関さんに水ぶっかけてる憲剛さんをみながらうれし泣き。そして、J1に挑む高揚感。忘れられないなぁ。

そしてJ1

2005年。これがJ1かぁ、って思うことが多かった。やっと等々力に人が入って、2階を開放する日が増えてった。目の前でガンバの優勝をみて「いつかこの景色をみれる日はくるのだろうか」と泣いた。そのあと天皇杯で神奈川ダービーを観に長崎いったり。

2006年。ドイツW杯。バイトしまくって現地までいったけど、あの6月はフロンターレから代表だなんて、ただの冗談だった。でも8月にガナが選ばれた。そしたら10月に憲剛さんが代表入り。

「ああ、ついに私の憲剛がみんなの憲剛になっちゃうー」

なんてことをよく口にしてたギャルだった。だんだん等々力は1万人越えが普通になって、ガラガラだったころが懐かしくなる。水曜日は高校にユニフォームを着ていっても、ださく思われなくなった。
ルフロンでガナと憲剛さんのトークショーを観に行ったの、懐かしいなぁ。

2007年。国立の決勝で、離婚して出て行った母親と久々に会った。しばらく音信不通にしてて、前日に誘った。優勝して仲直りしようと思ったけど、勝てなかった。でも「憲剛はほんと有名になったよね」、母とはそんな会話をした。

最初のコラムは憲剛さんについて

2008年。スポーツ記者を志してマスコミの専門学校に進学した。一番最初に練習で書いたコラムは「中村憲剛、ボランチへのコンバートとスルーパス」。何て書いたかは覚えていない。非常勤講師に女にはスポーツ記者は無理だよ、とあっさり言われて、うのみにしてすぐ諦めた。この年からフロンパークでインターン(という名のバイト)をはじめた、すこしでもフロンターレに関わりたくて。

2009年。リーグも2位。ナビスコも2位。悔しかったなぁ。卒業制作でほんとうは憲剛さんにインタビューしたかったけど、それはもっとプロになってからにしようと思って、天野さんにインタビューさせてもらった(天野さんごめん)(天野さんのプロモ術はいまも私の原点です)。

社会人になったら遠い等々力

2010年。雑誌の編集者になった。激務過ぎて昔のように通えないけどシーチケだけは買っていた。憲剛さんはW杯にいった。南アフリカ行きたかったなぁ。でも、フロンターレからW杯戦士があらわれるなんて冗談だと思っていたのに、会社で原稿さばきながらその事実がうれしくて泣いた。

2011年。東日本大震災。その直後にリストラされた。お金なさすぎて契約してた保険を解約してシーチケを買った、等々力にいく暇ないのに。芸能記者として再スタートして、さらに激務ななか観に行った、どしゃぶりのガンバ戦。ロスタイムに憲剛さんが直接FKを決めて、勝った。涙がとまらなかった。

「わたし、フロンターレが生き甲斐だったのに、仕事に忙殺されて何してるんだ。ここに通える仕事にかえよう」

そんなことを思ったあとの2012年。年明けに突然会社がつぶれた。何もかもなくなった。雇用保険で生きる身分なのに、カードローンを借りてシーチケを買った。家賃払うお金もなくて実家に帰ったら父がガンで倒れてて、超大変だった。借金してまでシーチケ買うとかいま思うとバカだけど、フロンターレを諦めたらたぶん人生から退場してた。

そこから半年ぐらい、仕事をせずに等々力にまた通いだした。サッカーを普通にみれることが本当に幸せだった。そこにはもちろん、憲剛さんがいて。
SHISHAMOちゃんの歌は私にとってこの時期にリンクしていて、本当に泣ける。私は憲剛さんというヒーローがいなかったら、また頑張って働こうって思わなかったと思う。

2013年。社会復帰してまた編集者になった。運よく大企業に入れて土日休み定時あがりできるようになり、私の生活はやっとまともになっていった。ヤヒロが監督になって嘉人がきて、フロンターレは新時代に入ったなと感じた。まるで自分の人生とリンクするようで、気持ちも新たにホームはほぼ毎試合行けるようになった。

2014年。気が付いたらフロンターレは結構有名になっていた。会社のデスクに憲剛さんのJポテのトレカとか飾りまくっていたら、全然サッカー知らなそうな同僚に「中村憲剛いいですよね!」って言われて驚いた。SKP14なつかしい。

2015年。憲剛さんが引退をきめたらしい年。私もこのころ「憲剛さんはあと数年だろうな」と思ってた。やっと稼ぎに余裕が出てきて躊躇なくユニフォームを買えるようになり、この年から毎年欠かさず14番を買うようになった。やっと憲剛さんのナンバー入りを買えて、超うれしかった。

ラスト5年の快進撃

2016年。帰りの電車でJリーグアウォーズの結果をまっていた。中村憲剛がMVP。満員の東海道線のなかで嗚咽しながら泣いて、まわりから白い目で見られたけどどうでもよかった。うれしすぎた。あの時のLINE速報のスクショ、さがせば出てくると思う。

2017年。忘れもしない12月2日。優勝の瞬間は、憲剛さんが突っ伏したのをみて意味がわかった。私もその場で泣き崩れた。すべてが報われたと思った。憲剛さんと優勝できてよかった、あのときサポやめないでよかった、ずっとずっと応援してきてよかった。走馬灯のようにいろいろ頭に浮かんで、隣にいた知らないおばあちゃんと抱き合った。

2018年。14歳の私からしたら信じられない連覇。強かった。毎年、史上最高を更新してくる中村憲剛。意味わかんなかった。仕事にあけくれていて結婚もあきらめてたころ、最終節にネットで知り合ったのちに夫になるひととフロンパークで出会った。

2019年。やっとナ…じゃないやルヴァンを獲った。長かったね~~。憲剛さんが表彰台にのぼった光景に涙した。でもそのあとすぐ、あの大けがのシーン。さすがに動揺したけど、なぜかこのまま引退は絶対しないだろ、と思って期待しかなかった。どんだけパワーアップして戻ってくるか楽しみだな~と思いながら、夫と出会った1年後に結婚した。

2020年。等々力に近い家を買った。婚姻届に憲剛さんにサイン入れてもらおうかなー、なんて浮かれたことを話していたらどんどんコロナが流行っていく。不安でしかなかった。でも再開後、憲剛さんが復帰するにはちょうどいいかもなーなんて思っていた。

無観客がつづいたあと、久々に等々力で観れるようになって、でも味わったことのない空気の等々力に、これからの不安とか、こんななかでもサッカーが見れる幸せだとか、いろんな感情がまざって泣いた。等々力で何度泣くんだよ。

そしてあの復帰戦。等々力にはいけなかった。非常に悔しい。でも、もう言葉ではあらわせないような展開を見せてくれて、憲剛さんってもはや等々力の神様だなと思った。

10/31。クラシコ。どこかで決めると思ってたけど、やっぱりゴール決めちゃう憲剛さん。最高だった。でもその夜中に出たリリースをみて、すぐに「あー、考えたくないけど、憲剛さん引退するんだ」と思った。11/1に発表する理由って、それぐらいしか思い浮かばなかった。翌日、やっぱり引退会見だった。
もっと泣くかな?と思ったけど、ここにきて全然泣けなかった(笑)
さみしい・かなしい・もっとできるじゃん!という感情よりも「なんて清々しいんだ」と思った。

もう気が付いたら18年、こんなに熱狂させてもらって、たくさんの感情を与えてもらって、優勝もして誇りというものを抱かせてもらって、憲剛さんをみるために一生懸命働いてきて、等々力に通っていたら家族もできて、わたし、これ以上「中村憲剛選手」に求めるものないやって思った。顧客満足度1400%って感じです。もう、十分。やりきった。というか、かっこいいまま辞めるところが本当に憲剛さんらしくて最高ですよ。誰ですか、そんな脚本書いたの。

気が付いたら私もコンテンツを生み出す側の人間になっていたのですが、憲剛さんのキャリアほどドラマチックで素敵な脚本ないなぁって最近思います。それをリアルタイムでずっと見てこれたこと。頭の片隅には常に中村憲剛がいたこと。いろいろあったけど、私はあなたを応援できることが何よりも幸せだった。本当にありがとうございます。

結婚して1年経った12月3日。フロンターレさんにも協力してもらって、フロンパークやフロカフェ、等々力緑地で記念の写真をとりました。スタッフさん、Twitterでとりあげていただきありがとうございます。私のお気に入りの写真はこれです。

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フロンターレロードが憲剛さんロードになっているなか、大切な写真が撮れたこと、本当にうれしくて。だからシーズンが終わる前に引退発表してくれたこと、あらためて感謝しかないです。

そして3度目のJタイトル

今年はまじで強かった。強かった以外の感想がないぐらい。(笑)
18年前の、2003年の私にみせてあげたいな。引退セレモニーも最高でした。悠くんが人生を変えてくれたひとって言ってたけど、私のほうがよっぽど人生変えてもらったわ、って思いました。張り合ってすみません。なので、このnoteを書くことにしました(笑)

で、憲剛さん。

天皇杯は絶対獲りましょうね。選手のうちに獲れなかったら、監督になって獲ってくださいね。約束ですよ。よろしく頼みますね!!!

そして、きっと憲剛さんはまだまだいろんな景色を見せてくれるんだろうな~と思っています。そうですよね?期待しています。そのうち元気な子を産むんで、絶対モレリア履かせてフロサポなサッカー少年として育てて、憲剛さんにご指導いただけるような人間にするのがいまの将来の夢です。私の腹からでてくる子、きっと深いDNAレベルで憲剛さんのこと好きなはずなんで…という冗談はさておき、今後のさらなるご活躍を心から、心からお祈りしています。

以上、長文失礼しました。最後まで読んでいただけたなら、ありがとうございます。

追伸:わたしたちの婚姻届(控)にサインを入れてもらうことはあきらめていないので、引退後どうすればサインを入れてもらえるのか、教えてください。(おもにプロモ部のみなさん、もしよければ、協力してください)


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