自己紹介① ☽♌滅私奉公を終えるまで
こんにちは。りょうです。
このページをご覧くださり、ありがとうございます。
生まれてから2020年までのことを時系列で振返りました。
長い記事が苦手な私の、かなり長い記事です。
気になるところをお読みください。
1.子どものころ
昭和50年代生まれ。
♏に太陽はじめ5天体集中
AC ♑ゆえ、まじめにしっかりこなしてきた人生の前半戦の話です。
父母、年子の妹、4つ下の弟と暮らす。
祖母が絵本を読んであげるというと、どんなに大泣きしていても
ぴたりと泣き止む子だったらしい。
2.小学生のころ
自分の記憶があるのは小学生から。
なかなか自分の意見が言えなくて、大人しい子どもだったと思います。
(心の中には言いたいこといっぱい。口に出せなかった)
ピアノを年長から中2まで習う。
日記を書くのが好きで、ノートにタイトルつけて書いたりしていました。
3.中学生のころ
中学は学区の関係で小学校からの知り合いは10人。
300人/年の中のたったの10人。
何とか生き抜くために、勉強しました。
勉強ができれば、いじめられることはないだろうと思って。
それから、言いたいことを言えない自分を変えようと決めて
思うことを口に出し始めました。
口調からか、その激しさからか、
怒っているのかと思ったと言われること数回。
どういうことを言わない方がいいのか?の線引きができていなかったように思います。
部活は体操部。
人数ほどほど、練習もほどほどで、
友達と話したり踊ったりが楽しかったなぁ。
4.高校生のころ
高校は自由な校風の学校
入学式の式典演奏に惹かれて吹奏楽部に。
経験者より、初心者のほうが多い感じ、だけど、練習すれば先輩たちのようになれると、ひたすら練習に励む日々でした。
共通言語が音楽だからか、自分を出せたのがよかったな。
ファゴット担当だったので、中低音の魅力にはまる。
文系を選択、図書室が近くにありました。
興味のある本を片っ端から読み漁る日々。
机の中の半分は借りた本。
吉本ばななさんの本もたくさん読みました。
5.大学生のころ
大学は文学部日本文学科
心理学をやってみたかったけど、
数学は小5くらいからあきらめていたから興味があるのは本だけでした。
関東の大学で、1人暮らし。
漢字が並ぶ万葉集と奮闘したり、
カレーの作り方を書けばいいという日本語文法のテストを受けたり
なんかマニアックな人たちの集まりで、面白い日々だった。
自分はこんな風に熱く語れるものがあるだろうか?
と思うことがよくありました。
昔からあまりTVを見なかったので、家にいるときはほとんど
TOKYOFMをかけていました。
時計がわりになるくらい、タイムテーブルがしみ込んでた。
国語の教員免許と、図書館司書、学校司書の資格取得に励む。
生活費を稼ぐために、色々アルバイトをしました。
(ミスド・ケーキ屋・ヨーカドー・家庭教師・コジマ・旅館の中居さん・コールセンター)
卒論は源氏物語
和綴じの本を作って提出し、今もそれは本棚の奥に眠っています。
就職は氷河期真っただ中。
実家からは帰ってこいコール、
自分は本屋に就職したいと思っていたので途中まで静岡と東京両方で
活動していました。
たまに帰省するのは、遠くないと思っていたけれど、静岡の面接と東京の説明会が被った時、その距離を痛感することに。
結局面接を選んで、地元にUターン決定。
6.社会人(会社員前半)
ベンチャーだ、男女関係なく総合職だという流れの就活を経て
入社したのは体育会系の会社でした。
1つ歳上の先輩から、私が入社したときは結婚したら辞める流れだったと
聞いてカルチャーショックを受けました。
人事担当が研修のときに、社内結婚が多いですと語り出したのにも
驚きました。
私は何でこの会社に入ったんだろう…と考えることが多くて。
説明会や面接では、全然気づけませんでした。
とにかく1年目は、自由に好きなことを追求した大学の4年間とのギャップが大きすぎて、週末だけが生きる糧。
3年は辞めないほうがいいという言葉を信じて、何とか乗り越えた感じです。
3年経つ頃には、任された仕事を自分で考えて回せるようになってきて
だんだん仕事が面白くなってきました。
わりと長い間、経理を担当させてもらえたのもよかったです。
まだ現金の出し入れが激しい時代、合う、合わないでやきもきしたり
帳簿をつけたり、会計のことを学んだり。
ちょっとずつレベルアップしていく感じも楽しかったなぁ。
(この頃から、産休育休を取得する人が増え始めました。)
7.社会人(会社員後半)
支店の統廃合や新部署の立ち上げ、など会社の体制がぐっと変わってきた頃、別会社に出向になりました。
入社して10年、システムが新しくなっていた本部から
入社した頃(10年前)のシステムを継続使用している会社への異動。
なんだかタイムスリップしたような感覚です。
手作業で処理する量がとにかく多くて、始めは大変だったけれど
手作業だからこその気づきもありました。
帳簿の仕訳けも微妙に違って、どうしてそうなるのか?を
自分の中で落とし込みながら追求できました。
第1子を出産、育休を経て復帰後も経理。
時短でどうやったら、今までと同じ量の仕事をこなせるか考えるのが
やりがいでした。
どこを省けるのか、段取りを考えて走り抜けるのは結構楽しかったです。
多分、経理の仕事はAC♑のまじめにコツコツ力、♏の深堀専門力
を活かせていたんだと思います。
1人1ポジションで、唯一無二的な感じも合っていた気がします。
第2子を出産、育休を経て復帰後営業職へ。
なぜここまできて、私に営業をやれと?
今までのコツコツ、何だった?
体もメンタルも完全じゃない中、
たいしたOJTもなくの飛び込み営業。
育児も仕事も思うようにいかなくて
サポート職に変更させてもらいました。
仕事でお母さんやるのって、無理だなと
気づいていたし、自分の体調不良で休むことも多く。
ただこなすだけの日々に
「辞めちゃえばいいんじゃないですかね?」とアドバイスしていただきました。
自分の中ではあと1年と思っていたので、本当に辞めていいのだろうか…と思い悩みました。
ただ、あと20年この会社で働けるのかと自分に問うと答えはNO。
引継ぎなどを考えて年度末に退職することにしました。
このタイミングで退職を伝えていなかったら、今もまだ勤めていたかもしれません。
退職するころにコロナが流行りはじめ、学童も閉鎖、保育園も可能な限り休んでください、学校も休校と続いていくのですから、
仕事をしながらそれらを乗り越える気力と体力は持ち合わせていなかったと思います。
8.会社員まとめ
だいたい1年に1回くらい辞めたい大きな波がやってきていたのですが、
同期の頑張りを耳にしたり、先輩や同僚たちと飲みに行って話を聞いたりすることで、何とか続いたと思っています。
周りの人たちに恵まれたからこそ、です。
書いていて感じたのは、レベルアップ感が好きだったんだなということ。
最初は苦手なことも、やっていくうちにできるようになって、今もその頃の知識や技術が活きていると思うと、
大変だったけど、続けてよかったなと感じています。
日々感じたことをシェアできたらと思っています。サポートしていただけたら、noteを続けるモチベーションにつながります。よろしくお願いします。