『dopeman narcotics anonymous.』#2 brotherhood part.2 吉上亮
「ガキの頃に誘拐された? ――あいつまたそんな駄法螺ふきやがったのか」
弟は昔からそうだったよ。病的な怖がりなんだ。デカい図体しているくせにな。笑っちまうだろ。最初のうちはな。
だけど、段々と目障りになってくるんだよ。「狼少年」の話は知ってるだろう。狼が来た――と嘘を吐いて大人を騙して遊んでいた少年は、そんな法螺話を繰り返してるうちに誰も信じてくれなくなって、本当に狼が来た時には誰もそいつの話を聞いてくれず、結局、その少年は狼に喰い殺された。
あれと似たようなもんだよ。最初の頃は、俺だって弟の話を真に受けてたさ。小学校の頃だったな。あいつが俺の袖を引っ張って言うんだよ。登下校のとき、通学路にいつも黒塗りのリンカーンが停まっていて、そいつは誘拐する子供を物色してる。ひとりでいると車に連れ込まれてどこか知らないところに攫われてしまう。怖いよ兄ちゃん。助けてよ兄ちゃん。
確かに全校集会で、登下校をひとりでするな、と校長は繰り返し言っていた。担任の教師も言っていた。だが、それは通り一辺倒の大人が子供にする警告というヤツで誘拐犯が出没するから警告しているわけじゃあなかった。ガキはひとりにすると何をしでかすか分からないし、誰もいないところで何かをやれば、その責任は学校が取らされる。
要は面倒を起こしてくれるな、と言いたかっただけだ。本当に人攫いがいるわけじゃない。そもそも警察が毎年公開してる犯罪認知統計の数を見てみりゃ、犯罪の数ってのは減り続けてたのは一目瞭然だった。あの頃はな。
俺たちが何者でもない子供だった頃は、日本の犯罪発生件数はどんどん減り続けてたんだ。一番多い犯罪は自転車泥棒だった。そんなものだ。殺人も強盗も、ましてや誘拐なんて凶悪犯罪は滅多に起こったりはしなかった。
けど、そんなことを子供が分かるか? 小さい身体で見ている主観の世界。手にした携帯端末から見えるネットの世界。どっちも年相応、小さな頭の容量に相応しいちっぽけなもんだ。数という普遍的な概念なんて理解してない。楽しいと思ったらとことん楽しいし、怖いと思ったら目の前の現実はとことん恐ろしいものに見える。それがガキにとっての「世界」だ。
つまり、弟は目の前の世界から、「怖い」を抽出する能力が普通よりも高かったのかもしれないな。危険を察知する能力だよ。自分に危害を及ぼすものや兆しを見つける感覚が鋭敏だったんだ。だがそれも度が過ぎれば、ないものをある、と錯覚することと紙一重だ。
弟は……二郎は、そういう妄想の世界に子供時点で片足を突っ込んでいたんだ。あるいは子供だからそうだったのかもしれない。いずれにせよ、弟にとって自分を取り囲む世界は「怖いもの」だらけだった。だから存在しない誘拐犯を怖がり、あるいは子供が素直に発してるだけの他意のない感想ってものを自分を傷つけるための言葉だと勘違いしたんだ。
それで怖い怖いと泣きついてくるんだ。俺のほうが怖かったよ。熊みたいにデカいヤツが渾身の力を込めて縋りついてくるんだぞ。うっかり力の入れ方を間違えられたら、腕をへし折られたっておかしくない。
だから弟は危険だったんだ。自分の強さを理解できない頭の弱さのせいで、あいつはいつも勘違いをして、必要のない暴力を周囲に振るった。あいつの主観では弱い自分が必死に危害を加えてくる相手を振り払ってるつもりなんだろうが、巻き込まれる側はたまったもんじゃない。あいつが通ってた学校でどれだけ備品を壊したか分かったもんじゃない。そのせいで謝罪に行かされるのは、きまって俺の親父だった。
親父の話は、もう二郎から聞かされるだろ。小さい工場を経営してたから面子と人間関係をとにかく大事にする人間だった。だから、親父にとっちゃ弟が学校で騒ぎを起こすなんていうのは、とんでもないことだった。地元の付き合いは地元で生まれたときから始まっている。
特に小学校と中学校で築かれた関係ってのが、その後の地元で過ごす一生の在り方を決めちまうといっても過言ではない。取引先や提携してる会社や工場の子供たちはみんな同じ学校に通っているから、そこで何か問題を起こせば村八分にされちまう。
親父はよくやったよ。弟が訳も分からず暴れるたび必ず学校に謝りにいった。弁償が必要なら相手が求めなくてもそうした。誠意を伝えるしかないんだ、と親父はよく言っていた。あいつもあいつの母親も別のところから来たからそのことが分からないんだ。知らないヤツの犯した過ちは知っているヤツが尻を拭うんだ。それが責任というものなんだ。
親父が再婚した理由を俺は直接聞いたことがなかったが、おそらくそれもまた親父が属していた地元の〈ルール〉ってものだったんだ。死んだ妻に操を立てて男手ひとつで息子一人を育てることが必ずしも美徳とされるわけじゃない世界もある。後妻を迎えないには何かよくない理由を隠してるんじゃないのか疑われたりもする。俺には最初から最後まで理解できなかった価値観だがな。
二郎の母親と俺は最後まで上手くいかなかったな。そういえば。別に俺が本当の母親に執着してたわけじゃない。単に相性が悪いんだ。母親というタイプの女たちが望む息子になれなかった男なんだ。俺は。
弟の母親はよく似てたよ。主観と客観が決定的にズレてるんだ。徹底して自分が弱くて駄目な人間なんだと思い込んでいたが、それは多分、分かれた前の夫のせいじゃないかと思うよ。弟のやつもそうだ。必要以上に自分は劣った人間だ、という自意識を植え付けられていた。全部想像だけどな。俺にはそう見えたというわけだ。
それで元の話に戻るけどな。あいつが子供の頃に誘拐されたことなんてないよ。犯罪なんて無縁の街で育って、本人はとてつもなくガタイがよくて暴れ回ったら大の大人だって手が付けられない。そんな子供を誘拐しようなんてガッツのある犯罪者はいなかった。
弟はな、世界の見え方が普通とちょっと違っているんだ。在りもしない恐怖をそこに見出してしまう度を越した怖がりってのは、言い方を変えれば、世の中の出来事や他人の行動を自分にとって何でも都合よく解釈してしまうっていうことだ。
バランスの取り方が下手なんだよ。自分と他人。妄想と現実。あいつが〈イカロス〉の密売が発覚しそうになったときも、本当に捜査の手が及んだのかも怪しいところだ。勝手に焦って、もうこれしかないって自分で自分を追い詰めて、〈イカロス〉を服用しちまったんじゃないのか。
だが、あいつも運がいい。〈イカロス〉に適合できる人間は少ない。たとえ兄の俺がドープマンとしての能力を獲得した前例があるとしても、俺たちは血が繋がった兄弟じゃない。俺という前例は、あいつにとって何の因果関係でも結ばれない。
逃走途中で子供を誘拐したのは最悪だったな。あいつ何でそんなことをしたんだ?
何なんだろうな。母親が自分の子供を誘拐しようとしているとでも思ったのか? 泣いてるそいつを助けようとしたつもりだったのか? いずれにせよ、あいつは誘拐をした。何の関係もないカタギの子供を人質に取った。
そういう振る舞いは〈カルテル〉じゃご法度なんだよ。犯罪者風情が何を言うのか、ってあんたは思うかもしれないが、法というルールの外側で生きてる人間たちがみんな無法で獣のような生き方をするわけじゃない。別のルールに属するんだ。もっと暴力的で原始的だが明確なルールの下で結束した群れを作る。
〈カルテル〉は、ドープマンの、ドープマンによる、ドープマンのための組織だ。一種の血盟で結ばれた契約みたいなものだ。
人間ではなくなった者たちだからこそ、普通の人間たちと必要以上に接触しようとはしない。面倒もかけないようにする。人間と獣は住む社会を棲み分けているなら殺し合ったりしない。
だが、お互いが領域を侵すようなヘマをすると殺戮になる。そうなると最悪、どちらかが全滅するまで命の奪い合いをすることになる。そういう全面戦争を望んでいるわけじゃないんだ。関わる必要があるときだけ関わる。そうでなければ関わらない。だから、必要のない接触は不要な血の犠牲をもたらし、人間は猟犬を解き放つ。そうなったら流血は避けられない。
弟のバカが何の関係もない子供に迂闊に触れちまった時点で、接触すべきでない二つの世界が衝突することになっちまったんだ。弟の代わりに謝るよ。あいつは自分がどうしてそんなことをしたのかっていう理由が自分でも分からないんだ。ズレてるあいつは、ただそこにいて何かをするたびに、その手で触れた何かを破壊してしまうんだ。
マトリの男が訳知り顔で何か言ってたな。お前は何をそんなに怖がっているのか、と。それ自体がもう答えそのものなんだ。ズレてしまった自分の帳尻合わせができるような器用さが弟の二郎にはない。ただ、少なくとも〈カルテル〉を介した、あんたたちの属しているところとは違う別のルールが適用される世界ならある程度の使い道もある。
何? まるで弟のために自分が〈カルテル〉に所属したんだと言っているみたいだ?
それは違うな。麻薬取締官。あんたの完全な勘違いだ。
俺は弟のために〈カルテル〉に属したわけじゃない。かといって、弟が話していた内容とも少し違う。何だろうな……気づいたらこうなっていたんだ。
俺の薬物との接触は高校のときだった。スポーツの強豪校でね。様々な学区から生徒が集まってくる。そうなると不思議なもので同じ学区だったときは話したこともなかったヤツと最初のうちは付き合うようになった。何の繋がりもない集団のなかで、とりあえず同郷という細い糸を介して繋がる。その場しのぎの関係。
そいつは同じ部活だった。スポーツアーチェリー。成績は……まあそいつのほうが格段に劣ってた。環境への適応度合もあったんだろう。そいつより俺より優れた選手は幾らでもいたが、俺はそういうものだと受け入れていた。どこかで自分の腕が通用しなくなるときがくる。漠然とそんな予感がずっとしていたから、現実を突きつけられてもさほど辛くはなかった。埋めがたい才能の差を縮めることよりも、どうすれば自分の能力を別のやり方で活用できるのかを考えた。
だが、同級生のそいつも必死に食らいつこうとしったんだが、傍目から見ても日に日に憔悴していった。底に穴の開いた桶に必死に水を汲んでるみたいだった。どれだけ努力をしたつもりになっても何かを積み上げることができず、注ぎ込んだものを垂れ流して無価値なものにしてしまう。部活にも段々と来なくなり、学校にも顔を出さなくなっていった。俺のほうも付き合いがないわけじゃなかったが、一定の成績を維持していれば部活のグループのなかに属することもできたし、そうすることで普段の学校での付き合いってものも段々と出来上がる。元々、細い糸の繋がりでしかなかったそいつを優先する理由もなかった。気づいたときには、そいつは退学し行方知れずになった。
しかし、俺はそいつとしばらくして再会することになった。
ある夜のことだ。
俺もまた、俺自身の別の出口を見つけたくて必死になっていたんだ。
〈つづく〉
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原作:吉上亮[協力モンスターラウンジ]×漫画オギノユーヘイによる『ドープマン』マンガ本編は「くらげバンチ」にて連載中。https://kuragebunch.com/episode/3269754496830840237