『dopeman : narcotics anonymous』 #1 brotherhood part.1 吉上亮
おれ?
針山二郎だよ。
どうして名乗んなきゃいけねえんだよ。あんた知ってんだろ。おれの名前を。あんたが逮捕したんだから。「触れたものを爆発させる」能力のドープマンだよ。あんたに毒を喰らわされて死にそうになった。毒殺しかけて解毒するなんてどんな趣味してんだよ。サドがよ。
マトリさんよ。
名前、そうだよ。
――マトリクス。
あんた変な名前してるよな。もう少しマシな名前を考えたりしなかったのかよ。あんたのほうがよっぽど俺たちよりドープマンっぽいよ。
でもどうせ偽名だろ。マトリは本名を明かさない。自分の正体を隠して俺たちに近づいてくるからな。でもよ、「マトリックス」って名前はどうなんだよ。そういう名前のヤツ、他に聞いたことないぜ。
偽名じゃないが本名でもない? 何だよそれ。どういう意味だ。ふざけてんのか。
記憶喪失?
……わかったよ。そういうことにしてやるよ。
……何だよ。まだなんかあるのかよ。
「マトリックス」じゃなく「マトリクス」?
細かいことを気にすんだな。あんたアレだろ。エス焙るとき電子秤で毎回きっちり分量はかるタイプだろ。兄貴もそうでよ。パケの重さが1gどころか0.1gでもズレても駄目だってすぐにキレるんだよな。
……その兄貴の話が聞きたいだと? 聞いてどうするんだよ。
治療?
治療って何を治療すんだよ。
……。
…………。
聞きたいなら話してやる。兄貴はすごかったんだ。どうせあんたは知らないだろうがな。
俺と兄貴は実は血が繋がってない。一郎と二郎って名前のせいで兄弟だって勘違いされるけどな。ていうか、一郎で二郎はないだろ。そんな適当な名前つける親なんて今どきいないだろ。兄貴は親父の連れ子で俺はお袋の連れ子だった。どういうことだって? だから再婚したんだよ。ガキだった俺はお袋に連れられて兄貴の親父の家に来たんだ。実の父親のこと? ……覚えてないな。ガキだったからな。すげえガキだったからな。
兄貴の親父は会社を経営してた。でも小さい会社だよ。従業員だって両手で数えられるくらいだ。やってることも地味だし親父の見た目もマジで親父っていうしかないくらい地味だった。みんなが知ってるデッケエ企業が大きい顔してられんのは自分たちみたいなちっちぇ会社が一生懸命働いてるおかげだってのが、親父の口癖だった。
絶対に侮られんなよ。親父は俺にも兄貴にもお袋にもいつも言って聞かせてた。へらへら笑って自分を誤魔化したら一生負け犬だからな。
俺は負け犬になりたくないと思ったよ。親父を見てそう思ったからだ。気に喰わない反応したらすぐに叩かれたよ。親父はデッケエ金持ちの家で飼われてる犬の一匹なんだ。飼い主のことが怖くて吠えられないから犬小屋のなかで俺たちに吠えてたんだ。
けど、兄貴は違った。すごかった。小学校のときから頭もよくて学年トップだった。おまけに運動神経までよかった。マジで俺にないもの全部を兄貴は持ってた。
俺? 図体ばっかデカくてデブデブ言われて頭もどんくさくて落ちこぼれだったよ。
だから弟に駄目なとこ全部を押しつけて兄貴は生まれてきたんだろうなって学校の奴らが笑ってた。俺の前でいつも。俺たちが本当は血が繋がってないことも知らないでよ。俺が兄貴の弟になる前から兄貴はすごかったてのにさ。
だから、俺はちっとも悔しくなかった。俺が笑われたって兄貴がすげえことは何ひとつだって傷つきやしないからだ。
兄貴は、俺のぜんぶだったんだ。マジでリスペクトしかなかった。
高校から俺と兄貴は別々の学校になった。兄貴は地元からちょっと遠いが県内じゃ名の知れた学校に進学したんだぜ。
けど、兄貴は高校に上がった途端、成績が落ちたって親父が愚痴をこぼすようになった。無理して高い学費も払ってんのになんてザマだ。お袋は兄貴が悪い遊びを覚えたんだって詰ってた。いつも遅く帰ってくる兄貴を親父が怒鳴りつけてさ、殴るんだよ。
兄貴は何も言い返さなかった。兄貴は昔から寡黙だった。ビビって何も言えなくなるんじゃない。ビビってるヤツらに何を言っても時間の無駄だって知ってたからだ。
馬鹿だな。兄貴のこと何もわかってねえ。俺だけが兄貴のやろうとしてることをわかってた。
兄貴が教えてくれたんだよ。弟の俺にだけ。
――もうあと何年かしたら親父の会社は潰れる。何もしなけりゃ、俺たちは一緒に路頭に迷う羽目になるぜ。
珍しく兄貴のほうが俺に話してきた。兄貴の計画を教えてくれた。兄貴は、この家から出るための方法をずっと考えてた。親父の会社はちょっとずつだが経営が悪くなってた。兄貴は「あいつは流れに乗れなかった。なら先は短い」と言った。
親父は昔気質のおっさんで「全薬物合法化」とかいう国の政策に反対してた。麻薬を誰でも打てる国なんて滅びるに決まってる。
兄貴は違った。冷静な物の見方ってやつができるひとだった。
国っていうデカいものが意味不明なことをするとき、流れがそうなったからそうなるんだ。そして流れがそうなったら絶対そうなる。
親父は何だかよくわからないがデカい商売を親会社から持ち掛けられたらしいんだ。
それは「針」を作ることだった。山のような数の針を作るデカい受注があったらしい。けど、それが「麻薬のために使われる」って聞いた途端、激怒して家に帰ってきた。
許せない。あいつらは自分たちまっとうな人間に犯罪の片棒を担がせようとしている。おれはモラルに反するとかなんとか……。
だがそれが間違いだったと兄貴は断言したんだ。
事実、その仕事を断って以来、親父の会社の景気は確実に悪くなってた。流れってものは目に見えなくて、その正体が何なのかも俺にはわかんなかったけどよ。兄貴は俺たちの乗る船がボロ船からドロ船に変わってることに気づいてた。沈む船からは早いうちに逃げないといけない。
もうあまり時間はない。兄貴は言った。少しでも早く金を作って逃げないといけない。
――一刻も早く成り上がるなら勉強よりもスポーツだ。
兄貴の成績が悪くなったのは勉強をしなくなったからだ。けど、それは優先順が兄貴のなかで決まったからだ。兄貴はスポーツに自分の能力のすべてを絞った。兄貴は弓道から初めて…そこからスポーツアーチェリー競技に進んだ。兄貴は勉強する時間も寝る時間も惜しんでトレーニングをした。夜遅くに帰ってくるのは必死にバイトをして金を稼いでたからだ。トレーニングのための金。全部自分で賄った。
兄貴は言った。
いいか、二郎。勉強が金になるのは結局、受験でいい大学にいっていい会社に入って出世してからだ。投資に対するリターンまでの期間が長いんだ。とにかく時間がかかる。だがスポーツは違う。10代で才能のピークが来て20を過ぎたら引退が視野に入るような種目も多いが、その分、早いうちからまとまった金を手にすることができる。俺はそれに賭けるしかない。この国の連中はスポーツができるガキに期待する。金を出す。子供のうちから大金を手にするなら芸能かスポーツだ。しかし俺たちは知っての通り不細工だ。なら、やることはひとつしかないってことは、バカのお前でもわかるよな?
兄貴はいつだって冷静だった。いつも先のことを見据えていた。兄貴はいつも正しいことを言っていた。
だがな、そのスポーツだってあと数年でルールが変わっちまう。全薬物合法化になれば、当然、規制されてたドーピングだってやり放題になる。そうなったら高価な薬物を使える金持ちの奴らにトロフィーは独占される。二郎、覚えておけよ。薬物が蔓延した社会こそ金持ちに有利に働くし、貧乏人には不利になるんだ。
俺たちはそうなる前のギリギリの世代だ。何としても逃げ切ってみせる。俺たちを乗せたまま沈もうとする船から。
だから、あの大会が運命の分かれ道だったんだ。
兄貴の言ったことは正しかった。親父の会社はどんどん経営が傾いていった。信頼していた部下が裏切ってライバル会社を立ち上げて、ごっそりと仕事を奪われたんだ。
親父はあいつは「汚い仕事」を請け負った卑劣な野郎だとか事あるごとに罵ったが、結局は流れが読めなかった負け犬の遠吠えだ。見るも無残に落ちぶれた。
それに比べて兄貴は輝いていた。すべてを一点に引き絞った兄貴のアーチェリーの腕前はとんでもないものになった。百発百中。向かうところ敵なしだった。学校じゃ当然トップのエースだった。大学へ進学するだけならどこにだって引く手あまただった。
けど、兄貴の目的はそんなヤワなものじゃなかった。トップのトップ出なけりゃ意味がない。オリンピック出場者を一番多く輩出し、金回りが最もいい大学を標的に定めた。
当然、そのブランドやステータスに群がる連中は大勢いたから競争は熾烈だ。兄貴と並ぶような腕前の連中がゴロゴロいた。そういう奴ら全員を叩きのめさなきゃいけない。ただ試合に勝つだけじゃない。完膚なきまでに。絶対の実力差を周知させる。
そのための全国大会だったんだ。
ほとんどのスポーツ競技は、どれだけ成績がよくても地元で騒がれる程度だ。全国大会で成功を収めて、ようやく世の中がその存在を認めてくれる。
だから、兄貴は絶対に負けられなかったんだ。
なのに、
ああクソ、
ちくしょうあの親父!
大事な大会の前日だったんだ。親父は、会場近くに前泊する予定だった兄貴を家に呼び戻した。家族一緒の食事だ。全員揃ったのは何年振りだろうな。親父はぶつぶつと呟いた。
もう18なんだから酒を飲んでもいいだろ。なあ。親父は兄貴にしきりに酒を勧めた。お袋が明日は大会だからと言っても聞かなかった。
それでも兄貴が一杯も酒に口をつけないでいると親父は急に黙って、それから兄貴のコップに注ぐつもりだったらしいビールの瓶をがっぽがっぽといきなりラッパ飲みにした。
げぇ~っという俺が人生で聞いてきたなかで一番だらしねえ音で盛大にげっぷした。そして言ったんだ。
「お願いだ。大学進学を諦めて働いてくれ」
会社の経営が傾いてる。卑劣な裏切りにあった。親会社が同業の連中と結託して追い込みをかけてきている。もう誰も信じられない。信じられるのは家族だけだ。家族はお互い助け合うものだ。お前は俺を選んだ。俺を選んだお前なら、俺は会社を託せる。
堰を切ったように親父は兄貴を褒め続けた。よくまあこんなに思いつくなってくらいのこびへつらいのオンパレードだ。多分、そうすることで親父は相手の信頼を獲得してきたんだ。もしくは、そういうふうに周りから煽てられてきたのかもな。
けど、タイミングってものがあるだろ。どうして今だったんだ?
俺はお袋と一緒に黙って話を聞きながら、ずっとそう思ってた。
あんたは兄貴に大会で負けろっていうのか!?
あの頃、俺はもうガタイもでかくって格闘技もやってたから親父をぶん殴るのだってわけなかったさ。そうしようとしたさ。やらなかったのは兄貴が止めたからだ。兄貴の鷹のような鋭い目が俺を見た。俺は兄貴の考えてることがわかった。
兄貴は目の前のコップを掴んで中身を飲み干した。泡ひとつ立ってない温いビールを。
「わかった」
「わかってくれたか!」
「明日の大会で答えを出すよ」
兄貴はそれっきり何も言わなかった。煮え立った鍋から焦げたすき焼きの匂いが漂って、その匂いは次の日の朝になっても部屋中にしみ込んだまま消えなかった。
翌日、兄貴は大会を勝ち進んだ。決勝戦まで進出した。けど、明らかに精彩を欠いていた。圧倒的な実力差を見せつけるはずがギリギリ僅差の成績での勝利ばかり。
そうなるとマズい。兄貴を見る目が悪くなる。地元じゃ強くても全国大会ではプレッシャーに負けるのか。そうなったら世界の舞台じゃ通用しない。そんなふうに何も知らない奴らは兄貴に好き勝手なスコアをつけて履歴書をゴミ箱に捨てる。
応援席には俺とお袋と親父がいた。俺は悔しかった。親父は兄貴の不調にどこかほっとしているようだった。俺は悔しかった。
けど、俺はすぐに知った。本気のマジの兄貴の実力を。
決勝は第一射から完璧だった。これまので不調がまったく嘘みたいな正確さで的を撃ち抜いた。とてつもなくタフな精神力。場内が沸いた。競ってる他の選手だって兄貴のことを「マジかよ…」って顔で見てたのさ。
――やっぱりすげえや、兄貴。
俺はぼそっと呟いた。涙が滲みそうだった。こんなんじゃカッケえ兄貴を見られねえじゃねえか――そう思って、手で目を拭って、そして見たんだ。兄貴が次の矢を打とうとしたとき、す…と身体の向きを変えて観客席のほうを見た。俺は兄貴の眼を見た。とても静かで、知的で、獲物を見る鷹の眼差し。
審判も監督も選手も誰も止める間もなかった。
スカン!と清々しい音がして、兄貴が放った矢は、親父の頭を打ち抜いていた。ブルルンと矢が震えてた。その動きで頭蓋を貫通して突き刺さった矢の先端が親父の脳味噌をめちゃくちゃに掻き回したのか、親父は「うっうっうっ」ってびくびく全身を痙攣させてひとしきり不気味なダンスを踊ってから階段状になった観客席を転げ落ちていった。
親父は即死だった。
そこで兄貴の選手人生は終わった。自ら終止符を打ったんだ。
兄貴は逮捕されて裁判に掛けられた。まだ18歳で前科もない。だが、矢はするどく研がれていて明確な殺人の意志があった。
兄貴は沈黙を貫いた。殺人罪。懲役20年。兄貴は刑務所に送られた。
面会に行ったのは俺だけだった。お袋は一度も兄貴のところに行かなかった。兄貴はお袋の子供じゃなかったから。お袋は兄貴を疎んでのかもしれない。親父が俺をどこか疎んでいたように。けど俺は違う。俺は、血が繋がってなくても兄貴の本当の弟なんだ。
何年だって一緒だよ。20年だってずっと俺は兄貴のところに来るよ。俺だけは絶対に裏切らない。
兄貴は、静かに首を横に振った。
……そんなことはしなくていい。
でも!
俺は動揺した。兄貴は俺のことも信じてくれないのか。
刑務所内で取引をした。俺は一年後に出所する。
え、と俺は声を洩らした。
いいか。俺が親父を殺したのは、あの野郎が憎かったからじゃない。あの大会で俺をスカウトしたがってる本当の奴らに、俺がどれだけ使えるかを示すためだった。
使えるかって……。
殺したいと思った相手を殺せるか。殺せと言われた相手を殺せるか。
「覚悟」だ。
腹が据わってるかどうか試したんだよ。
で、予想通り接触があった。〈カルテル〉の刺客になれとスカウトがあった。
そして、兄貴はコトリと小さな音をさせて薬のアンプルを取り出した。
面会には監視の刑務官がいるのに、そいつは何も言わなかった。グルなんだ。すぐに分かった。〈カルテル〉が何を意味するのか、どんな組織なのか、まだこのときの俺は知らなかった。確かなことは、兄貴は俺の知らないところで、俺の知らない誰かと契約をしていた、ということだ。
――こいつは〈イカロス〉だ。
全薬物合法化によってさえも合法化されることのない特級の規格外薬物。この〈イカロス〉で「ドープマン」になることが、〈カルテル〉に属するための条件だ。俺はその条件を呑んだ。兄貴は、俺の目の前で、その薬物を摂取した。そして〈イカロス〉に適性のあった兄貴はドープマンになった。
「発射した弾丸のサイズを変化させる能力」
いいか、二郎。兄貴は俺に言った。〈狙ったものに絶対命中させる〉それが俺の望みだった。あの日、俺は親父の戯言なんて無視して優勝するつもりだった。絶対に一矢も外さないつもりだった。
だが、決勝に臨んだときに確信した。「勝てない。俺は負け犬になる」そう思った瞬間、俺は、俺をこんな状態にしたクソ野郎を撃ちたくなった。テストなんて殺すための動機付けに過ぎなかったのかもしれねえな。俺はなりたかったんだよ。絶対に下手を打たないこと。狙った的を絶対に外すことのない射手に。
二郎、ムショを出たら俺を手伝え。
「俺たち兄弟はずっと一緒だ」
数か月後、俺は兄貴と合流して売人の仕事についた。俺にとって兄貴だけが本当に信じられる家族だからだ。兄貴のためなら、家族のためなら俺はどんなことだってやれるんだ。
だってそうだろ。家族ってそういうもんだ。お互いに信じ合って尊敬して、何があっても傷つけないし裏切らない。家族ってそういうもんだ。世の中で信じられるものは少ない。けど、兄弟ってのは違う。本当の兄弟は何があっても離れ離れになったりしない。俺たちは絶対にどこまでだって一緒なんだ。
……何だよ、あんた。言いたいことがありそうじゃねえか。
――そんなに家族が大切だって知ってるなら、なんであの子供を人質にしたのかだと?
母親の気持ちを考えたのか。子供の気持ち考えたのか。うるせえな。考えたよ。ちらっと頭を過ぎったよ。
あのとき……違う……〈イカロス〉を使ってハイになって考えなしに子供を攫ったわけじゃねえ。焦ってたのは本当だ。兄貴に迷惑が掛けちゃいけないってことで頭がいっぱいだった。どこに逃げればいい。誰から逃げればいい。どうすりゃいい。
そしたら、俺の目の前のあのガキがいた。ひとりぼっちだった。
「泣いていたんだ」
なんだか、兄貴に出会う前の俺を見ているみたいだった。だからってどうして誘拐したのかって?
…。
……。
…………。
「俺はガキの頃に誘拐されたんだ」
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原作:吉上亮[協力モンスターラウンジ]×漫画オギノユーヘイによる『ドープマン』マンガ本編は「くらげバンチ」にて連載中。https://kuragebunch.com/episode/3269754496830840237